今川氏親
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 凡例今川 氏親
時代戦国時代
生誕文明3年(1471年[1][2] / 文明5年(1473年[3]
死没大永6年6月23日1526年8月1日
改名龍王丸(幼名)→氏親
別名五郎(通称)
戒名増善寺殿喬山紹僖大禅定門
墓所静岡市葵区慈悲尾の増善寺
官位従四位上、上総治部大輔修理大夫
幕府室町幕府 駿河遠江守護
主君足利義尚義材義澄義稙
氏族今川氏
父母父:今川義忠、母:伊勢盛定の娘・北川殿
兄弟女(正親町三条実望室)、氏親、心範
寿桂尼中御門宣胤の娘)
氏輝彦五郎玄広恵探象耳泉奘?、義元氏豊?、徳蔵院(吉良義堯室)、瑞渓院北条氏康室)、娘(小笠原春義室)?、娘(松平親善室、後鵜殿長持室)?、娘(中御門宣綱室)、娘(瀬名氏俊室)、娘(関口親永室)?、娘(大谷吉秀室[4]
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今川 氏親(いまがわ うじちか)は戦国時代武将守護大名戦国大名である。駿河今川氏の第9代当主。駿河・遠江守護。父は今川義忠、母は幕臣伊勢盛定の娘・北川殿今川義元の父であり、伊勢宗瑞 (北条早雲) の甥にあたる。
生涯
出生

文明3年(1473年[注釈 1]、駿河守護・今川義忠の嫡子として誕生した。

母は伊勢新九郎盛時(宗瑞、北条早雲)の姉[注釈 2]北川殿。盛時が素浪人と考えられていた頃、北川殿は側室とされていたが、近年の研究で室町幕府政所執事の名門伊勢氏の一族で、しかも幕府の申次衆であることがほぼ明らかになっており、北川殿は正室だったと考えられている[7]

父・義忠が応仁の乱で東軍に味方して上洛していた時に、母の北川殿と結婚したと考えられている[8]。また、北川殿の弟が盛時であったことが、氏親の生涯に大きな影響を与えた。
家督争い

文明8年(1476年)2月6日、父・義忠が遠江国の塩買坂での戦いにおいて、横地氏・勝間田氏ら遠江地元国人衆の残党に襲われ戦死した。龍王丸(たつおうまる、氏親の幼名)は未だ幼少だったため、家臣の三浦氏朝比奈氏らが父の従兄弟の小鹿範満を擁立して家督争いが起こり、龍王丸派と範満派が分かれて数度の合戦に及ぶ事態になった。また、父の義忠の死の原因になった横地氏・勝間田氏の斯波氏への内通は、幕府が任命した正規の遠江守護(斯波義良、後の斯波義寛)への帰参であった形式とされるため、これを妨害した義忠は幕府への反逆者とみなされ、遺児の龍王丸も家督継承どころか、反逆者の一族として討伐される可能性もあった。このために氏親は母とともに身を隠したと考えられている[9]

堀越公方足利政知執事上杉政憲扇谷上杉家家宰の太田道灌が兵を率いて、駿河国へ進駐して家督争いに介入した。範満は扇谷上杉家の縁者(当主上杉定正が範満の父の母方の従兄弟)であり、上杉家と堀越公方は享徳の乱で協力関係にあった。これに氏親の叔父の伊勢新九郎が仲裁に入り、範満が龍王丸の後見人として家督を代行する、という形で決着した[10]。伊勢新九郎が一介の素浪人と考えられていた頃は、抜群の知略による後の北条早雲の飛躍の第一歩のように語られていたが、近年の研究で伊勢氏の一族の幕臣伊勢盛時であることがほぼ明らかになっており、室町幕府の意向を受けて盛時が駿河へ下向して、今川氏の内紛を調停したと考えられている[11][12]

一方で歴史学者・黒田基樹は、盛時が駿河へ下向して太田道灌と交渉し範満が家督を代行する、という形で収束させたというのは後世の混同か創作で、実際は扇谷上杉氏と堀越公方の後押しを受けた範満がこの時に家督を継いでいたのではないかとしている[13]

家督の代行となった範満が今川館に入り、龍王丸は母の北川殿とともに小川の法永長者(長谷川正宣)の屋敷である小川城焼津市)に身を寄せた。盛時は幕府に申請して、文明11年(1479年)12月21日に前将軍足利義政の名による龍王丸の家督継承の御教書を得ている[14][15]

数年後、龍王丸は15歳を過ぎて成人したが、範満は家督を返そうとはせず、家督奪取の動きを見せて、龍王丸を圧迫した。

文明19年(1487年)、北川殿と龍王丸は京都で9代将軍・足利義尚に仕えていた盛時に助けを求め、盛時は再び駿河へ下向した。

同年11月、盛時は石脇城(現在の静岡県焼津市)を拠点に兵を集めて今川館を襲撃し、範満を討った。範満が頼りにしていた太田道灌は主君の上杉定正に殺害されて既に亡く、堀越公方足利政知は子の清晃(後の足利義澄)を次期将軍候補として同年6月に上洛させており、幕府との関係から龍王丸支持へと立場を切り替えていた状況下で行われたとみられている[16]

通説では、龍王丸は今川館に入って元服し、氏親(「氏」の字は本家・足利氏通字に由来)と名乗り、今川氏の当主となったとされている。しかし、この通説には2つの問題点があるとされる。1つは『今川家譜』・『宇津山記』によれば、範満襲撃以前より住んでいた丸子館を家督継承後もしばらくの間本拠にしていたと推測される点であり、もう1つは、通常の武家の元服は15歳前後であるのに、氏親は19歳(もしくは21歳)にあたる延徳3年(1491年)まで龍王丸の名乗りを用い、その後、明応3年(1494年)9月まで黒朱印の印判状を発行(後述)し、翌4年(1495年)になって初めて「氏親」の署名や花押のある文書が登場するという点である。前者については、黒田基樹は「対外戦争と並行して行われた国内平定が明応4年ごろに完了して、氏親が駿河一国を掌握したのを機に本拠を今川館に移した」と推測している。また、後者については明応4年以前に元服していたとする説があり、例えば家永遵嗣は『今川記』の異本である『富麓記』の記述により、「堀越公方足利政知が晩年に古河公方討滅を意識して「氏満」と名乗った上で龍王丸に偏諱を与えて「氏親」と名乗らせたが、延徳3年(1491年)に政知が死去して堀越公方と今川氏が対立関係となり、反対に一時的に古河公方との関係改善が図られる中で、この元服と偏諱の事実を秘匿する必要があったが、最終的に堀越公方は没落して古河公方との関係修繕も失敗したために、公然と「氏親」と称するようになった」とする[17]


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