今小路基冬
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 凡例今小路基冬
時代南北朝時代
生誕暦応4年/興国2年(1341年
死没永徳2年/弘和2年11月21日1382年12月26日
別名後浄覚寺殿(法号)
官位従一位権大納言
主君光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇
氏族藤原北家摂関家二条家分家の今小路家
父母父:今小路良冬、母:不詳
子師冬、満済
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今小路基冬(いまのこうじ もとふゆ)は南北朝時代の公卿。従一位権大納言。父は従一位権大納言今小路良冬。母は不詳。二条良基の子とされていたという[1]
目次

1 満済の実父

2 従一位昇叙の背景

3 経歴

4 脚注

5 参考文献

満済の実父

室町幕府の政権運営に大きな影響力を発揮した醍醐寺三宝院満済は、『尊卑分脈』によって基冬の孫と考えられてきた。しかし、『大日本史料』第7編の資料によれば、満済は基冬の子であることが判明したのである[2]
従一位昇叙の背景

今小路家は摂関家二条家の分家であるが、摂関家並の昇進を遂げ従一位にまで叙せられた背景は、足利義満の覇権が確立しつつある時期に、同時代に従一位に叙せられた他の公卿と同様に北朝政権と足利義満に忠実な立場であったからと考えられる。
経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

延文元年/正平11年(1356年)12月25日、従三位に叙される[3]左中将は元の如し。延文3年/正平13年(1358年)1月7日、正三位に昇叙。同年3月30日、近江権守を兼ねる。貞治5年/正平21年(1366年)4月19日、従二位に昇叙。応安2年/正平24年(1369年)12月19日、権中納言に任ぜられる。応安4年/建徳2年(1371年)1月5日、正二位に昇叙。応安7年/文中3年(1374年)12月13日、権大納言に任ぜられる。応安8年/天授元年(1375年)2月7日、権大納言を辞した。永徳2年/弘和2年(1382年)11月、従一位に叙せられるが[4]、同月21日に薨去。享年42。
脚注

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^ 『公卿補任』延文元年の条。養子か猶子かは明確ではない。
^ 『大日本史料』第7編の20所収、応永21年11月22日の条。
^ 従三位に叙せられる前の経歴は不明である。
^ 同じ年には万里小路仲房正親町三条実音准大臣宣旨を得ている。また、四辻善成が従一位に叙せられ広橋兼綱が准大臣となったのは前年の永徳元年/弘和元年(1381年)である。

参考文献

公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※延文元年/正平11年(1356年)に基冬が非参議従三位となった時以降の記事。

尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「今小路基冬」および「二条兼基」の項。

『大日本史料』第7編、東京大学資料編纂所


更新日時:2015年8月2日(日)09:39
取得日時:2018/09/03 15:42


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