今和次郎
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今和次郎
1956年
誕生日1888年7月10日
死没年 (1973-10-27) 1973年10月27日(85歳没)
国籍 日本
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今 和次郎(こん わじろう、1888年明治21年〉7月10日 - 1973年昭和48年〉10月27日)は、日本建築学者民俗学研究者。考現学の第一人者。今裕の甥。今純三の兄。
概要

早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、日本建築士会会長他、団体の要職も多く務める。民家服装研究などで業績があり「考現学」を提唱し、建築学住居生活や意匠研究などでも活躍した。文化女子大学短期大学部・現文化学園大学短期大学部との関わりもあり家政学を教えていたこともあるが、旧来の家政学や社会政策学への批判認識から生活学を提唱した。後に日本生活学会を発足させ会長に就任。

関東大震災後、菜っ葉服(ジャンパー)を着るようになり、結婚式や宮邸への訪問、大使館でのパーティーなどにも背広でなくジャンパーで通した。
足跡と人物像

「白茅会」参加より端を発する柳田國男門下としての民家研究、日本全国と大陸に渡る農村生活調査活動、関東大震災後のバラック装飾活動による独自の視点から都市と生活復興への関与と風俗観察、生活文化の流れからの服装研究など、研究者としての調査研究活動範囲は多岐にわたる。

1910年代から石黒忠篤からいろいろなかたちで調査費を援助され、国の各種機関の役員に就任し、国の政策とかかわっていく。戦前期は内務省社会局や地方局の生活改善事業の推進を担い、戦後もGHQの農村改善事業を進める役割を担うほか、農林省文部省厚生省の仕事も多く担い、様々な団体の会長にも就任しているほど、組織的な活動を率先して実施。建築組織の活動は建築士会の他、新日本建築家集団委員長を務めていた。また、政治的活動は日本社会党北多摩支部長を長きにわたり勤め、党政拡大の貢献により河上丈太郎から表彰されているが、シンパシーは当時民社党のほうであったという。

服装研究以降、白い麻のスーツを着てパナマハットを被っているような格好から冠婚葬祭でもジャンパー着用へと達したが、和次郎のクローゼットにはジャンパーが20着ぐらい並び、どれにしようか選んでいたという。今和次郎本人によると小さい頃から勉強は嫌いで、絵を描くのは好きであった。町内の家の格子をずっと描いている少年だったという。東京美術学校時代は、おじの医学者・今裕(のち北海道大学総長)の家に寄宿し、アルバイトで人体解剖図を制作している。また、弟の今純三は銅版画家になった。

美校を卒業し早稲田大学に赴任すると、早稲田では第二部理工学部に研究室を設けた。
略歴

1888年(明治21年) -
青森県弘前市百石町にて、父成男、母きよの次男として生まれる[1]。今家は代々津軽藩の典医をつとめる。

1893年(明治26年) - 弟純三が生まれる[1]

1906年(明治39年) - 東奥義塾中学卒。一家で東京市四谷に引っ越す。1907年(明治40年)、東京美術学校図按化(現在の東京芸術大学美術学部)に入学[1]し、デッサンの勉強に励む。

1912年(明治45年) - 東京美術学校図按科卒。卒業制作は「工芸各種図案」。岡田信一郎の薦めで早稲田大学建築学科助手に採用される。佐藤功一に師事[1]

1914年(大正3年) - 早稲田大学講師となる[1]

1915年(大正5年) - 早稲田大学助教授となる[1]

1917年(大正6年) - 早稲田大学の佐藤功一教授の誘いで「白茅会」(はくぼうかい)[2]石黒忠篤らとともに参加。柳田國男の調査に同行[1]し、各地の民家のスケッチをするようになる。

1918年(大正7年) - 「民家図集 第一輯 埼玉県」白茅会(民家調査の最初の報告書)[1]。「郷土会」と「白茅会」による神奈川県津久井郡内郷村調査に参加。

1919年(大正8年) - 東京美術学校講師。農商務省住宅に関する事務取扱(農商務省農村住宅調査嘱託)を委嘱され、以後、全国にわたって農村住宅を視察。

1920年(大正9年) - 早稲田大学教授となる[1]。都市計画や造園に関する講義を行った。これに関連して人文地理学に接近する[3]

1922年(大正11年) - 「日本の民家 田園生活者の住家」(鈴木書店)を刊行[1]


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