今井町
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この項目では、奈良県橿原市の地域について説明しています。

旧自治体としての今井町については「今井町 (奈良県)」をご覧ください。

その他各地の今井町については「今井町 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

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今井町
いまいちょう
日本
地方近畿地方
都道府県奈良県
自治体橿原市
旧自治体今井町
世帯数2,373世帯
総人口1,076人(住民基本台帳、2016年10月1日現在)
隣接地区小綱町・五井町・四条町・兵部町・南八木町・八木町
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今井町の町並今井町の町並

今井町(いまいちょう)は、奈良県橿原市の中部に位置する地区で、1?4丁目からなる。戦国時代寺内町が原型となり、全建物数約1500棟弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっており、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件あり、2017年平成29年)4月28日に日本遺産に認定された。
地理

奈良県橿原市の中部に位置する、東西約600m、南北約310mの地区である。北東部の1丁目、南東部の2丁目、南西部の3丁目、北西部の4丁目に分かれている。地形はおおむね平坦で、東を飛鳥川が北流している。北は小綱町(しょうこちょう)、西は五井町、南は四条町、東は兵部町および南八木町1丁目、北東は八木町1丁目(いずれも橿原市)と接している。
町の構造今井町域の復元模型中街道 (下ツ道)の延長線上にある今井町本町筋今井町西環濠跡

条里制の基幹線である中街道 (下ツ道)八木町の札の辻、井戸の辻、醍醐辻を南北に走り、醍醐辻を西に延長していくと、今井町の本町筋に合致し、今井町を形成計画していく上での中心線となっていて、ほぼ長方形の区域の中に東西南北方向に方眼状に道路を配し、町並みや街路の形状は町造りの始められた頃の区画が今も残っている。街路は町の端から端まで通り抜けのものではなく、入口において道幅だけ屈曲しているか、途中で丁字型に突き当たっていて、見通しのできないように配備されている。今西家住宅北側の道路の本町筋では、住宅建物だけが北側の道路に突出していて、東西両端で道が大きく南に屈曲していて、前方の見通しが悪く、今西家の前を通る道路は、この角で折れ曲がって小さい枡形を形成し、二階の窓は町内の道を真っ直ぐに見通す位置につくられている。その機能も意匠も物見櫓とよく似ているが、この家の性格を示している。町内より外部に通じる通路は、東面に3門、南面に3門、西に1門、乾方向に1門、北に1門の9つの門があり、夜は4つの門のみを開け、外来者が町中にみだりに入ることを拒んでいた。もし外来者が今井町内で宿泊する必要のあるときは、その都度、町年寄へ届出を必要としていた。

今井郷が都市的に発展したのは、中世末期において一向宗本願寺の進出によって一転機がおとずれ、俄然頭角を現すようになり、一向宗の道場を建設して以来のことで、町並の整った寺内町今井が成立した。このとき今井郷の形態は、外敵から郷民の安全を守るために、自衛上武力を養い、郷の周辺にを巡らし、土塁を設けた環濠集落で、現在もその濠跡が今井の周辺にその遺構を残している。織田信長に挑戦し、武装解除されてから自治権を委ねられて自治都市として確立した町並みが出来上がり、江戸初期から末期にかけての民家が軒を連ねるようになり、町並の形態が現在まで残されてきた。また、この古い町並の外周には三重の環濠跡を現在に残している。この環濠は巾三間(約5.45m)を有する濠をめぐらし、その内部には同じく環濠を掘り上げた際のを盛り上げて三間の土塁を築き、雑木藪を植えて外部からの視界を妨げていた。
歴史
前史

飛鳥時代には、「八木村付曽武橋当世八木村に俗にそむぼう乃橋というあり。聖徳太子斑鳩宮より筋違道太子道)を経て、曽武々の橋をわたり、八木の里を過ぎて、橘宮に通い給いしなり」(玉林抄)とあり、聖徳太子が舎人調使麻呂(つきのおみまろ)と秦河勝から献上された愛馬甲斐の黒駒を伴って曽武(蘇武)井で休憩したと伝えられている。大和志に「遊部井は今井村にあり」と記されてアソブがソブ(蘇武)に転訛したとの説がある[注 1]。その後、大宝律令によって国郡里制が制定され高市・今井の2郡が設けられ、次いで巨勢・波多・遊部・桧前・来目・雲梯・賀美の7郡ができた。大和政権から律令国家成立期にかけての地勢は地下の軟弱な状態からみて、あるいは泥地のような湿地帯でなかったかと思われる。ところが今井町より東北1.5kmの位置にある八木町は、奈良・京都・難波・伊勢・四日市・吉野・紀州路への交通の拠点で、八木周辺はその意味で古くから町屋化し、自然と商業も盛んになり、中世の今井町も隣接の八木の商業が入り込み、今井の町を形成してきた。
鎌倉?戦国時代

今井の地名が歴史に現れるのは1386年至徳3年)で、この頃は興福寺であった。大和国は京都に都が遷されてから長らく興福寺が治めており、鎌倉幕府も敢て大和には守護を赴任させず、古代豪族の流れを汲む大和四家と呼ばれる有力衆徒国人筒井氏越智氏十市氏、箸尾氏)が各地の荘園を管理していた。今井庄は、興福寺一乗院の荘園で、1386年(至徳3年)に高取城越智家栄が市をひらこうとした記録が残っている。(興福寺一乗院文書)

畿内一向一揆終焉後の1533年(天文2年)、布教拠点を求めて今井に一向宗の道場がたてられたが、興福寺一乗院の国民越智氏によって幾度も破却される。

1559年(永禄2年)になると畿内を支配していた三好長慶の家臣松永久秀が大和に入国し、国衆との乱闘が繰り広げられた。ここで本願寺を背景とした今井郷はそれら角逐に乗じて、有利に発展し、興福寺からの弾圧も免れることになり、漸く永禄年間に顕如上人により寺号を得て、河瀬兵部丞(後改め今井兵部房)と河合清長(後改め今西正冬)が門徒や在郷武士・牢人を結集させ今井道場を中心とする寺内町をつくった。中世の今井庄環濠集落を母体として発展し、東西南北の他、新町・今町の6町が成立した。
安土桃山時代

1568年(永禄11年)織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、松永久秀は信長に従属し、大和一国の支配を認められた。信長の援軍により、筒井順慶は劣勢に追い込まれた。1569年(永禄12年)十市遠勝の死後、十市家は筒井方と松永方に分裂し、松永方の十市後室ら一族郎党は今井の河合清長宅へ疎開した(多聞院日記)。しかし、1571年(元亀2年)久秀は三好三人衆と和睦して信長に反旗を翻し、信長包囲網の一環として石山本願寺と呼応した。

今井郷も石山合戦の際には、石山本願寺、三好三人衆について織田信長に反抗し、を深くし土塁や見通しを妨げる筋違いの道路等を築き桝形として虎口を固め、最前線である西口に櫓 (城郭)を設け、今西家を城構えとして環濠城塞都市となった [注 2]。戦争を仕掛けるためでなく自衛のためにつくった要塞都市の一つである。堀は場所によって違うが、幅が5mから7m、深さは2mほどもあった。織田信長今井郷惣中宛朱印状

1575年(天正3年)、織田信長の降伏勧告を拒絶した在郷武士団(十市家、川合家の一族郎党)や長島一向一揆の牢人などを中心とした今井郷民が蹶起し、佐久間信盛を大将とした明智光秀配属の筒井順慶率いる織田の軍勢と半年あまり戦った。しかし、一向宗率いる顕如が信長に和睦を申し入れたために降伏を余儀なくされた。そして、明智光秀や筒井順慶と親しい堺の豪商津田宗及の斡旋により今井郷に対して11月9日に信長から朱印状(今井郷惣中宛赦免状)が付与され赦免された。


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