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中央が今井武夫
生誕1898年2月23日
日本 長野県 長野市
死没 (1982-06-12) 1982年6月12日(84歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1918 - 1945
最終階級 陸軍少将
墓所多磨霊園
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今井 武夫(いまい たけお、1898年(明治31年)2月23日 - 1982年(昭和57年)6月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は少将。 長野県上水内郡朝陽村(現長野市)の自作農今井熊太郎の六子のうち末子・四男として生まれた。1915年(大正4年)、(旧制)長野中学校を卒業(15回生)。六年制になったばかりの尋常小学校初の卒業生で、早生まれのため、高等小学校卒業生の多かった長野中学卒業生の中で今井は2番目に若かった。1918年(大正7年)、陸軍士官学校(30期、兵科は歩兵)を、1928年(昭和3年)、陸軍大学校(40期)をそれぞれ卒業。 陸大卒業以降、フィリピンに出征した約1年間を除き、日中戦争期間中、和平工作に従事した。1931年(昭和6年)9月、参謀本部支那班勤務となった大尉時代に、満州事変(柳条湖事件)が発生。橋本虎之助参謀本部第二部長(少将)、遠藤三郎作戦課員(少佐)、西原一策陸軍省軍務局軍事課員(少佐)と4人で、陸軍中央部から調査団として奉天の関東軍司令部に派遣され、現地で石原莞爾中佐の権勢を見せつけられた。 1931年末から1年半、中国研究員を命ぜられ、単身中国に渡り、北平(北京)・天津・上海・広東駐在の陸軍を手伝い、その後半年近く参謀本部付のまま、奉天の特務機関員を務めた。この間、暇をみつけては中国各地を旅行した。1933年(昭和8年)9月、奉天にいた今井は、田代皖一郎憲兵隊司令官の訪問を受け、「支那大陸を南北にわたって、お前ほど根気よく理解しようとしている者は少ない」と言って褒められている。同年末に東京参謀本部に戻った。1935年(昭和10年)12月に、大使館付陸軍武官補佐官、通称北京武官となり、家族と中国に赴任。 1937年(昭和12年)7月7日、北平郊外での盧溝橋事件に遭遇。不拡大派だった今井は、中国側と現地交渉を行い7月11日一時的停戦に成功。しかし同日、内地で近衛文麿内閣が出兵を決定し、中国での停戦は一時的なものとなり、事変は決着せず拡大した。同年末帰国し、参謀本部支那班長、次いで支那課長となる。陸軍大学校兵学教官も兼務した。 今井は中国の要人と親しく、1936年に孔祥熙別邸で喜多誠一、雨宮巽、?介石、高宗武、銭大鈞とともに並んでいる写真もある[1]。今井は冀察政務委員会の宋哲元、秦徳純、張自忠などの中国側の要人と盧溝橋事件で現地解決を勤めた。日中が全面戦争状態になると、国民党の汪兆銘との和平工作(汪兆銘工作)を、影佐禎昭中将(谷垣禎一衆議院議員の外祖父)らとともに担当。汪兆銘本人が期待したほど、中国国内から和平支持勢力が得られなかった。今井は南京に成立した汪兆銘政権の和平作業の補完として、1939年(昭和14年)9月、志願して南京の支那派遣軍参謀(一時期、報道部長兼務)として、重慶の抗日?介石政権との直接交渉「桐工作」などの和平工作に当る。 日中戦争打開のために、極秘で1939年から始まった和平工作である。汪兆銘工作は、汪の地盤と見られていた東南諸軍の呼応が無く、結局日本占領地下での政権樹立という方針に転換した時に、汪らはこの政権が日本の傀儡となるのではないかという強い危惧を抱いたが、同時に日本にとって期待する全面和平への障害となるか、促進になるのか疑問でもあった。また汪兆銘工作は対日和平派であった高宗武と陶希聖も条件の過酷である事を批判し離脱してしまった。結局、工作を推進していた今井は、汪政権の樹立に力を尽くすと同時に蒋介石の重慶政権との和平こそが最終的な日中和平に繋がると見て、1939年12月末、蒋介石夫人宋美齢の弟の宋子良との接触を開始した。翌年の宋子良との会談で、正式な和平会議の前提を論議する、日中両国私的使節による予備会談を持つ事に決定。今井はこれを閑院宮参謀総長、畑俊六陸相に報告し、さらに昭和天皇へ上奏がなされた。 参謀本部と陸軍省はこの工作を「桐工作」と命名し、宋子良の提議通り予備会談を開催し、臼井茂樹大佐・今井武夫大佐・鈴木卓爾中佐らを代表とした。会談は香港でおこなわれたが、満州国承認問題をめぐって揉め、正式回答6月に再度会談が廈門でもたれた。日本は汪兆銘・蒋介石政府の合作を日本が仲介する事、?介石・汪兆銘・板垣征四郎の会談を要求したが、宋は?の出席は難しいと言い場所は長沙を指定した。7月末、重慶政府からもたらされた回答は、汪・?合作に関し、日本は口出しせぬ事などを始めとして、近衛第一次声明(「国民政府を対手とせず」)の内容撤回などを回答してきた。また、日本側においても政変があり、米内光政内閣が更迭されて第二次近衛文麿内閣が成立、新陸相の東條英機は桐工作に冷淡であった。9月に宋は重慶政府内で懸案となっているのは満州国承認と日本軍の駐兵問題で、「懸案の二件は日華和平実現の癌なれば、日本側にて譲歩する以外、和平実現の見込みなし」と断言し、9月27日、支那派遣軍は桐工作を中止するに至った。 その後も「汪・?政権の合作」「非併合・非賠償」「中国の独立」をもとにした条件が行われたが、?介石は中国本土への日本軍の防共駐屯には断固反対し、一方東條英機も日本軍の無条件撤退に断固反対した。1941年には仏印進駐で日本に対して石油が禁輸になり、戦争回避のために日米交渉が持たれたが、11月にはハルノートを提示され、日米開戦に至った。 石井秋穂中佐によれば、蒙疆・華北への駐兵に固執したのは、対米交渉の破綻が目的ではなく、アメリカは華北の共産化の危機を理解するであろうという期待の故であったという[2]。中国の共産化と対米戦争とは陸軍が最も避けたかった事態であり、中国の共産化を防ぐために駐兵に固執した事が、逆に対米開戦を招く事になった。 折からの日独伊三国同盟締結の影響などもあり「桐工作」は失敗。第14軍(本間雅晴軍司令官)隷下でマニラ占領後の警備集団として編成された第65旅団隷下の福山編成歩兵第141連隊連隊長として今井は赴任。
盧溝橋事件まで
日中和平工作
桐工作
フィリピン時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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