仁顕王后
????
朝鮮王妃
別称号孝敬淑聖荘純元化懿烈貞穆仁顕王后
出生康熙6年4月23日(1667年5月15日)
朝鮮国漢城府盤松坊
仁顕王后 閔氏(じんけんおうこう びんし、イニョンワンフ ミンシ、康熙6年4月23日(1667年5月15日) - 康熙40年8月14日(1701年9月16日))は、李氏朝鮮第19代国王粛宗の2番目の正室。尊号・徽号・諡号は孝敬淑聖荘純元化懿烈貞穆仁顕王后。陵号は明陵。本貫は驪興閔氏。 1667年に盤松洞私邸にて、驪陽府院君 閔維重と2番目の妻・恩城府夫人 宋氏の次女として誕生した。粛宗の最初の妃・仁敬王后が崩御した翌年の1681年に継室として粛宗と婚礼をあげ、王妃となる。これは粛宗の母・明聖王后、母方の親戚である宋時烈らの推薦によるものであった。しかし、王は南人派を後ろ盾とする女官出身の側室張氏を寵愛し、西人派の王妃は疎外された。また病弱なこともあってか、彼女は生涯、子を産むことは無かった。 その不幸に追い討ちをかけるように、張氏は王子(のちの第20代国王景宗)を出産し、その子は世子に立てられ、「淑媛」であった張氏は「昭儀」、更には「嬪」へと昇進、「禧嬪」と号されることとなった。1689年に彼女は禧嬪張氏と南人派の策略によって廃位され、実家に戻された。仁顕王后を追い出した禧嬪張氏は王妃になり、権勢を振るった。 廃位されて貧困生活を強いられた仁顕王后は、それに耐え続けた。それは周辺の人々の同情を集め、やがて王の心に届くこととなる。南人派に押さえつけられた西人派は彼女の復位運動を展開(閔氏重定運動)、それはかつての西人派のような南人派の増長を危惧し南人派を牽制したい粛宗の思惑と合致した。 そして、6年目に粛宗は決断し南人派を一掃、王妃張氏は「嬪」に降格され、1694年に彼女は王妃に復位した。しかし、困窮生活を送っていたためか体調が悪化(一説には「心臓病」とされている)し、6年後の1701年に昌慶宮(チャンギョングン)景春殿にて崩御した。享年34歳。仁顕王后の死後、王妃の死は張氏が密かに巫女を宮殿に招き入れ、王妃が早く死ぬよう呪詛した為死に至ったという淑嬪崔氏の告訴により、禧嬪張氏に賜薬が下された。宮女の1人が書いた小説『仁顕王后伝』が伝わっている。
生涯
家族
父:閔維重(戸曹判書 贈 領議政 驪陽府院君 文貞公、1630年 - 1687年。)
前母:海豊府夫人 徳水李氏
実母:恩城府夫人 恩津宋氏(1637年 - 1672年。宋時烈とは親戚。)
継母:豊昌府夫人 豊壌趙氏(1659年 - 1741年。父の後妻。)
兄:閔鎭厚(礼曹判書 忠文公、1659年 - 1720年。明成皇后(第26代国王高宗の妃で第27代国王純宗の母)は来孫。)
兄:閔鎭遠(左議政 文忠公、1664年 - 1736年。母は恩城府夫人 恩津宋氏。純明孝皇后(純宗の最初の妃)は昆孫。)
弟:閔鎭永(1682年 - 1724年。母は豊昌府夫人 豊壌趙氏。高宗の生母・驪興府大夫人 閔氏は来孫。※途中で養子に入ったため、実際の血筋は子孫ではない。)
夫:粛宗
息子(養子):景宗
嫁:端懿王后 沈氏
嫁:宣懿王后 魚氏
参考資料
『朝鮮王朝史 下』李成茂著、日本評論社、2006年
文献
『仁顕王后伝』
仁顕王后を演じた俳優
イ・ヘスク: 『張禧嬪』MBC、1981年?1982年、日本未公開
パク・スネ:『朝鮮王朝五百年 仁顕王后』MBC、1988年、日本未公開
キム・ウォニ:『妖婦 張禧嬪』SBS、1995年
パク・ソニョン:『張禧嬪[チャン・ヒビン]』KBS、2002年?2003年
パク・ハソン:『トンイ』MBC、2010年(日本語吹き替え版声優:小林さやか)
キム・ヘイン:『イニョン王妃の男』tvN、2012年
ホン・スヒョン:『チャン・オクチョン-張禧嬪-』SBS、2013年(日本語吹き替え版声優:高橋理恵子)
先代