仁義なき戦い
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『仁義なき戦い』(じんぎなきたたかい)は、飯干晃一原作による日本ノンフィクションとその派生作品[1][2]
概要

第二次世界大戦後の広島県で発生した「広島抗争」の当事者の一人である美能幸三美能組組長の獄中手記に飯干が解説を加えた内容となっている[3][4][5]1973年1月に東映により同タイトルで映画化されて大ヒット作となり、全5作のシリーズが製作された[6][7]。シリーズ第一作が『キネマ旬報』が1999年に発表した「映画人が選ぶオールタイム・ベスト100 日本映画篇」で歴代第8位[8]、同じく2009年の「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」では歴代第5位にそれぞれ選出されている[9][10][11]。このほか、舞台化もなされた[12]
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週刊サンケイ』1972年5月19日号から作家の飯干晃一による「広島やくざ・流血20年の記録 仁義なき戦い」と題するノンフィクションの連載が始まった(全46回)[1][2]。この連載は戦後の広島県で発生した「広島抗争」に当事者として関わった美能幸三が網走刑務所で服役中に執筆した原稿用紙700枚[13] に及ぶ手記をベースとし[2]、これに飯干が当時の状況を書き加えた内容となっている[1][14]。やくざと関わりの深い政治家芸能人プロ野球選手等の人名、団体・地名も全て実名で掲載されており[2]、手記と解説が一対になって広島抗争が事件や行事ごとに時系列に沿って進行する[3]。「週刊サンケイ」で連載が開始されると圧倒的な人気となり、印刷所ではゲラの奪い合いになったという[2][3]

獄中手記を美能幸三が執筆することになったきっかけは、中国新聞報道部記者の今中亙が『文藝春秋』1965年4月号に寄稿した手記「暴力と戦った中国新聞 - 菊池賞の栄に輝く ペンは暴力よりも強し[15]」への怒りと悔しさだった[3][16]網走刑務所で服役中であった美能は、文藝春秋に掲載されたこの手記を偶然見つけ懐かしさのあまり飛びついて読んだが、「10日間もメシが食えないほど」腹を立てた。ケンカの張本人が自分と決めつけられている上、身に覚えのないことまで書かれていたからであった[16]。「美能が他の組幹部の意向を無視して山口組と勝手に盃を交わした」「破門された美能が山口組と打越会に助けを求めた」という記述があった[3]が、特に美能は「打越会に助けを求めた」という部分にプライドを傷つけられたという。「ヤクザとして生きていく以上、助けを求めたなどと書かれては黙ってはいられない。ウソを書かれて悔しい」と翌日から舎房の机で美能はこみ上げてくる怒りを抑えながらマスコミに対する怨念を込め、7年間を費やして原稿用紙700枚もの手記を書き上げた[3]。手記は汚名返上の執念が書かせたものであった。

このため『週刊サンケイ』で連載が決定したとき、美能は「登場人物を全て実名で掲載すること」をその条件とした。実名を出せばトラブルになることはわかっていたが、あくまで名誉回復のためなので「実名でなければ断る」と頑なだったという。1971年秋、『週刊サンケイ』の矢村隆編集部次長は掲載許可を取りつけるため東京のホテルで美能と会った[3]。手記の原稿には所々「幸三、お前の意志が弱いからだ」となどの注釈が書き込まれていた[17]。これは美能が母親に読んでもらったときのもので、美能としてはそもそも無関係の第三者に読ませるつもりはなかった。しかし、5度目の交渉でようやく掲載を承諾した[3]。このとき美能のつけた条件が前述の登場人物の実名掲載だった。これは「『中国新聞』も『文藝春秋』もみんな実名で書いている」と言う理由による。矢村が編集長と相談し、その条件を飲んで正式に打診した[3]。『週刊サンケイ』の担当者は、ヤクザから数多くの恫喝を受けたといわれる[18]

第二次広島抗争(広島代理戦争)の際、中国新聞はペンの力で暴力団に立ち向かう「暴力団追放キャンペーン」を展開し、その成果を『ある勇気の記録 : 凶器の下の取材ノート』として出版するなどした[19]。こうしたキャンペーンにより中国新聞は1965年の第13回菊池寛賞を受賞[3]。『ある勇気の記録』のタイトルでテレビドラマNET1966年10月 - 1967年1月)も制作放送され[20]池上彰をはじめこのドラマを見てジャーナリストを志した者も多い[21][22]。しかし、21世紀に入った今日では『仁義なき戦い』と比べものにならないほど『ある勇気の記録』の知名度は低くなっている[18]。『ある勇気の記録』の制作に協力した広島県警察は『仁義なき戦い』の映画化にあたって暴力団追放のキャンペーンにもなると考え、当初は製作に協力してくれたという話がある[23]
映画

仁義なき戦い
監督
深作欣二
脚本笠原和夫
原作飯干晃一
製作俊藤浩滋・日下部五朗
出演者菅原文太
松方弘樹
渡瀬恒彦
田中邦衛
金子信雄
梅宮辰夫
音楽津島利章
撮影吉田貞次
編集宮本信太郎
製作会社東映
配給東映
公開 1973年1月13日
上映時間99分
製作国 日本
言語日本語
次作仁義なき戦い 広島死闘篇
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プロジェクト 映画

解説

1973年(昭和48年)1月13日、東映配給網により正月映画第2弾として公開されたヤクザ映画[6][7][24]。監督深作欣二。シリーズを通しての主演は菅原文太。製作は東映京都撮影所(以下、京撮)。公開時の併映は『女番長 スケバン』。富士フィルムカラー、シネマスコープ、99分、映倫番号:17462。やくざ同士の抗争を題材にしながら仲間を裏切り、裏切られることでしか生きられない若者たちが描かれている。

この映画が登場するまでのヤクザ映画の多くはいわゆる、チョンマゲを取った時代劇と言われる虚構性の強い仁侠映画であり、義理人情に厚く正しい任侠道を歩むヒーローが描かれていた[4][25][26]1969年(昭和44年)から始まる菅原文太主演の『現代やくざシリーズ』で既にヤクザを美化した従来の任侠映画の常識を覆す現実的なワルを主人公にしたが[27]、本作の特色としては、従来の様式美をまったく無視して殺伐とした暴力描写を展開させた点[4][28][29]、ヤクザを現実的に暴力団としてとらえた点[30]、手記→実話小説→脚本→映画という経緯[28]、実在のヤクザの抗争を実録路線として、リアリティを追求した点等がある[31]。本作は実録物の先駆けとなった[7][32][33][34][35][36][37][38][39]。登場するヤクザの大半は金にがめつく、弱者に強い社会悪としての姿が大いに描かれており、仁侠映画のようにヤクザを美化することはない。一時的に英雄的に表現されるキャラクターも最後には無残に殺される場面が多い。

本作はヤクザを主人公にしているが、優れた群集活劇でもあり、暗黒社会の一戦後史でもあり、青春映画であり、自己啓発としての側面もある[24][28][40][41][42][43][44]。基本的に娯楽映画/エンターテイメントであるため、登場人物に感情移入させるためにもヤクザを魅力的な存在であるかのように描いており、犯罪者を美化しているとする批判もつきまとうことになる。


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