仁科芳雄
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生誕 (1890-12-06) 1890年12月6日
岡山県浅口郡里庄町浜中
死没 (1951-01-10) 1951年1月10日(60歳没)
肝臓癌
国籍 日本
研究分野物理学
研究機関理化学研究所
出身校東京帝国大学
主な業績

サイクロトロンの建設

クライン=仁科の公式

影響を
与えた人物湯川秀樹朝永振一郎
プロジェクト:人物伝
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仁科 芳雄(にしな よしお、1890年明治23年)12月6日[1] - 1951年昭和26年)1月10日[1])は、日本の物理学者日本量子力学の研究拠点を作ることに尽力し、理化学研究所(理研)に在籍して宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。日本の現代物理学の父である。岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。

死去から4年後の1955年原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。また理研の仁科加速器科学研究センターにも名を残す。

ニールス・ボーアの下で身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理学を世界水準に引き上げた。仁科の主催する研究室からは多くの学者が巣立ち、朝永振一郎坂田昌一が代表で、孫弟子も多くいる。仁科の影響の及ばない日本の素粒子論研究者は少ない。
生涯
誕生から学生時代

1890年12月6日岡山県浅口郡里庄町浜中で父・仁科存生(ありまさ)と母・津禰(つね)の四男として生まれる[1]。3人の兄と4人の姉、1人の弟がいた。子供の頃は羊羹好きで、夜中に起きて母の津禰に作らせていたと言う。新庄尋常小学校(現:里庄西小学校)、生石高等小学校首席卒業)を経て、1905年に岡山県立岡山中学校(現:岡山県立岡山朝日高等学校)に入学[1]。在学中はテニス部に所属し、5年次には主将も務めた。1910年に同校も首席で卒業し、成績優秀であるため無試験で旧制第六高等学校(現:岡山大学)の理科甲類に合格し、9月に入学した[1]。在学中は肋膜炎に苦しみ、2年次には1年間休学して[1]郷里で静養した。3年次には二部(工科、理科、農科)の運動部監督を務めるなどし、また特待生となっている。

1914年、首席で六高を卒業して、東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)の電気工学科に入学[1]。翌年2月に岡山県出身の学生のための精義塾に入居したが、4月5日に発熱して2年次への進級を断念した。この後、東京市芝区城山町(現・港区虎ノ門)にあった次兄の家に転居し卒業後まで過ごす。3年次の芝浦製作所での実地演習や、東京帝国大学工科大学教授鳳秀太郎の指導の下での電気機械関係の卒業論文などを経て、大学卒業後は大学院に進学して(電気)化学的方面の研究を行うことを決意する。1918年7月9日に大学を首席で卒業[1]。翌日から理化学研究所(理研)の研究生となり[1]、東京帝国大学工科大学助教授兼理化学研究所研究員の鯨井恒太郎の研究室に所属し、物理をやろうと思い始めた。同日、東京帝国大学大学院に入学し[1]、それから東京帝国大学理科大学教授兼理化学研究所物理学部長の長岡半太郎の研究室で実験をしながら東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)で理科の講義を聴いた。
ヨーロッパ留学左から仁科芳雄、ルウェリン・トーマス(英語版)、フリードリッヒ・フント(1926年 コペンハーゲン

1920年に理研の研究員補[1]となると翌1921年には2年間のヨーロッパ留学が決まり、4月5日神戸港を出て日本郵船の「北野丸」で南フランスマルセイユに渡った。同年5月には英国ロンドンに着き、最初に英国ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所で一年学び、アーネスト・ラザフォードに師事した[1]。翌1922年11月にドイツゲッティンゲン大学に移った[1]


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