仁科盛信
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 凡例仁科 盛信
仁科盛信甲冑像 (伊那市立高遠町歴史博物館蔵)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕弘治3年(1557年?)
死没天正10年3月2日1582年3月25日
改名武田晴清[1]→仁科盛信
別名信盛、五郎(通称)[1]、薩摩守[1](受領名)
戒名蒼龍院殿成巌建功大居士
放光院殿自剱宗知居士
墓所桂泉院、五郎山
主君武田信玄勝頼
氏族甲斐武田氏仁科氏
父母父:武田信玄、母:油川夫人
養父:仁科盛政
兄弟武田義信海野信親武田信之黄梅院北条氏政室)、見性院穴山梅雪室)、武田勝頼真竜院木曾義昌室)、盛信、葛山信貞武田信清松姫菊姫上杉景勝室)
武田信繁の娘、武田信廉の娘、仁科盛政の娘、福知新右衛門の娘
信基?、武田信貞?、晴正?、信久?、小督姫(玉田院)
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仁科 盛信(にしな もりのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。家紋は、割り菱紋と丸に割り菱紋。

末期に織田信長甲州征伐に際して一族・重臣の逃亡や寝返りが続く中、高遠城高遠城の戦い)において最後まで抵抗し、討死した。

は盛信のほか、近世の系図類・編纂物では「晴近」とする資料もあるが、父・晴信が将軍・足利義晴から授与された「晴」の偏を授与することは社会通念上ありえないことから、疑問視されている[2]。また、天正9年(1581年)5月7日付霊松寺宛禁制や『甲乱記』では「信盛」とする用例があり、天正9年2月から同年5月の間に、高遠入城を契機に改名した可能性が考えられている[2]長野県歌『信濃の国』でも「仁科の五郎信盛」と歌われている。
生涯
信玄時代

甲斐国戦国大名武田信玄の五男[1]として生まれる。母は油川信守の娘で側室の油川夫人。異母兄に武田義信勝頼、同母の弟妹に葛山信貞松姫織田信忠婚約者)・菊姫上杉景勝正室)がいる。信濃国安曇郡国人領主である仁科氏を継承し、武田親族衆に列する。武田氏は父・晴信期の天文年間から信濃侵攻を本格化し、信濃国人の被官化が進められていた。安曇郡を領する仁科氏は天文22年(1553年)に武田方に帰属し、安曇郡は仁科盛政支配期を経て直轄領化されている。晴信期の信濃支配では、征服した信濃名族と婚姻関係を結び親族衆に列することで懐柔させることが行われていたが、盛信も永禄4年(1561年)に父の意向で仁科氏の名跡を継ぎ、仁科氏の通字である「盛」の偏諱を受け継ぎ、親族100騎持の大将となっている。

天正年間には仁科氏当主として諸役免許や知行安堵を行っており、武田領国と敵対する越後国との国境警備や交通路の掌握を、等々力治右衛門ら安曇郡の国衆に指揮している[3]。また同5年(1577年)には高野山遍照光院を仁科氏や安曇郡の国衆の高野詣の際の宿坊と定めた(『高野山遍照光院宛寄進状』)。
勝頼時代と最期

信玄の死後は当主となった異母兄の勝頼に仕え、甲越同盟の締結後にも国境警備を務め、天正8年(1580年)には同盟に基づいて西浜(新潟県糸魚川市)の根知城に進駐している[4]。勝頼後期には織田・徳川勢力との敵対が激化し、天正9年(1581年)には対織田・徳川の軍事再編成に際して、本来の居城である信濃国森城の他、高遠城主を兼任する(高遠入城時に仁科氏を離れ武田姓に戻り、信盛と改名したという説もある)[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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