凡例仁田忠常
仁田忠常 / 月岡芳年画(明治時代)
時代平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕仁安2年4月10日(1167年5月7日)[1]
死没建仁3年9月6日(1203年10月12日)[2]
別名新田氏、日田氏
四郎、忠経、忠綱
墓所慶音寺(静岡県函南町仁田)
幕府鎌倉幕府 御家人
主君源頼朝、頼家
氏族藤原南家工藤氏流仁田氏
仁田 忠常(にった ただつね、仁安2年4月10日〈1167年5月7日〉- 建仁3年9月6日〈1203年10月12日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。通称は四郎。苗字は新田あるいは日田とも言われ、『平家物語』では「にたんのただつね」と表記されている。 伊豆国田方郡仁田郷(現在の静岡県函南町)の住人[2]。静岡県域を中心に根を下ろした工藤氏の一流で、岡部氏の近類という[3]。彰考館本『曽我物語』は曾我祐成・時致兄弟の従兄弟にあたるとするが不明[7]。
生涯
頼朝死後は跡を継いだ二代将軍・源頼家に仕えた。引き続き頼家に信頼され、建仁2年(1202年)には忠常の屋敷で小笠懸が催されている。『保暦間記』『北条九代記』は頼家の嫡男・一幡の乳母父となったとする[9]。建仁3年(1203年)、頼家に命じられて富士山麓の人穴を探索した[2]。同年7月、頼家が病に倒れ、8月には重態となる。9月2日、忠常は北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚・比企能員を天野遠景と共に謀殺した(比企能員の変)。
『吾妻鏡』によれば5日、危篤状態から回復した頼家から和田義盛とともに時政討伐の命令を受けた。翌晩、能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かうが、帰宅の遅れを怪しんだ弟の五郎(忠正)・六郎(忠時)は時政討伐の命を頼家から受けていたことが露見したと考え、北条義時のいた北条政子邸を襲撃。五郎は波多野忠綱に討たれ、六郎は自害した。ちょうどその頃、時政邸を出た忠常は帰宅途中に騒ぎを知り、もはやこれまでと御所へ行こうとしたところを加藤景廉に討たれたという[2]。