仁志敏久
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仁志 敏久横浜DeNAベイスターズ二軍監督時代
(2023年8月11日 横須賀スタジアム
基本情報
国籍 日本
出身地茨城県古河市
生年月日 (1971-10-04) 1971年10月4日(52歳)
身長
体重171 cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション二塁手三塁手
プロ入り1995年 ドラフト2位(逆指名)
初出場1996年4月5日
最終出場2009年9月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


常総学院高等学校

早稲田大学

日本生命

読売ジャイアンツ (1996 - 2006)

横浜ベイスターズ (2007 - 2009)

ランカスター・バーンストーマーズ (2010)

指導歴


サザンメリーランド・ブルークラブス

野球日本代表 (2013 - 2020)

横浜DeNAベイスターズ (2021 - 2023)

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仁志 敏久(にし としひさ、1971年10月4日 - )は、茨城県古河市出身の元プロ野球選手内野手・右投右打)、体育学者学位体育学修士筑波大学大学院2016年)。江戸川大学客員教授[1]
経歴
プロ入り前

常総学院高等学校では1年生からレギュラーを務め、エースの島田直也と共に活躍した。全国高等学校野球選手権大会に3年連続で出場し、1年時の第69回全国高等学校野球選手権大会では決勝でPL学園高等学校に敗退し準優勝。1988年の第70回大会では始球式打者として、当時の徳仁親王と対戦。高校通算28本塁打

早稲田大学人間科学部に入学。野球部では大越基と同期入部となった。1年次からメンバー入りし、水口栄二が卒業後の2年から遊撃手に定着すると4年では主将としてチームを牽引し、東京六大学野球春季リーグでは早慶戦史上初のサヨナラ満塁本塁打を放つ(その試合では2本目の本塁打)などシーズン6本塁打を記録するなど活躍。自身は前年秋の早慶戦で優勝を逃すサヨナラ失策を犯している(併殺を焦ってゴロをファンブル)。秋季リーグでは監督の石井連藏に進言して選手だけでオーダーを作り、チームを優勝に導いた。明治神宮大会では高木浩之が先発し、河原純一にリレーした駒澤大学に決勝で敗れた。当たり出すと猛打賞だがノーヒットも多かった。リーグ通算79試合出場、280打数91安打打率.325、11本塁打、40打点、27盗塁、ベストナイン3回。

プロからの誘いもあったなかでオリンピックも視野に入れて、日本生命に進むが、遊撃手失格の烙印を押され三塁手に転向する[2]1995年の都市対抗野球では4番を打って、準々決勝では本塁打を放つが敗退。1995年のドラフト会議読売ジャイアンツから2位指名(逆指名)を受けて入団。長年主砲として活躍し前年に引退した原辰徳背番号「8」を与えられた。幼いころから原の大ファンで、入団時には少年時代に懸賞で原のサイン入りバットが当選した、というエピソードが紹介された。仁志は、当時野球評論家に就任して間もない原との対談でそのバットを見せながら「(プロ入り初打席は)このサイン入りバットで打ちたい」と発言していた(実際は使用しなかった)。プロ入り後に「巨人に入団して変わったことは」と聞かれ、「これまで「原」「原」と呼び捨てにしていたのが「原さん」に変わった」とコメントしている。
巨人時代

1996年、開幕当初は二塁手での起用だったが新外国人のジェフ・マントが開幕から一ヶ月で解雇されるなどがあり[3]、シーズン途中から三塁手に定着。打率.270、7本塁打、24打点を記録し、巨人の野手では原辰徳以来15年ぶりのセ・リーグ新人王受賞[注 1]。巨人の野手の新人王は2009年に松本哲也が受賞するまで10年以上現れなかった。同年の阪神戦で久慈照嘉のサードゴロをトンネルしサヨナラ失策をしてしまい悔しさで顔をしばらく上げられないほど落ち込んだが、それ以来守備の意識が高くなった。8月16日の対ヤクルト17回戦では延長12回二死無走者の打席で山本樹からサヨナラ本塁打を放った[4]日本シリーズではチームは1勝4敗で敗れて日本一を逃し、仁志自身もシリーズ最後の打者になったものの(鈴木平にレフトライナーで打ち取られて試合終了)、敢闘賞を受賞した。

1997年二塁手に転向。7月19日の対ヤクルト戦では、巨人キラーの石井一久に対して、松井秀喜以外はすべて右打者を並べるという監督の長嶋茂雄の采配のために左翼手を守った(二塁が元木大介、三塁が石井浩郎)が、その試合で池山隆寛の高い飛球をランニング本塁打にしてしまい、その後二度と守ることはなかった(試合後、長嶋は自分の起用ミスのせいであると仁志を庇い、先発の斎藤雅樹に謝罪した)。同年は打率.242と前年より下がったが、10本塁打、39打点と本塁打と打点は前年より上がった。小柄な体格だったがコーチの土井正三の熱心な指導もあり[2]これ以降二塁手としての評価を伸ばした。

1998年、106試合に出場し、打率.274、11本塁打、33打点を記録した。

1999年、6月25日の対広島東洋カープ広島市民球場)でサイクル安打を達成した[5]。シーズンでは打率.298を記録。また、守備面でも自身初のゴールデングラブ賞を受賞した。

2000年、7月11日の対広島戦(札幌市円山球場)では2回に高橋建から自身初の満塁本塁打を放った[6]。シーズンでは打率.298、本塁打20本を記録。日本シリーズでは優秀選手賞も受賞。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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