仁徳天皇
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仁徳天皇
『東錦昼夜競』より「仁徳天皇」(部分)
1886年明治19年)楊洲周延
第16代天皇
在位期間
仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日(日本書紀
甲午年(394年?) - 丁卯年(427年?)(古事記
時代伝承の時代古墳時代
先代応神天皇
次代履中天皇

陵所百舌鳥耳原中陵
漢風諡号仁徳天皇
和風諡号大鷦鷯天皇
諱大鷦鷯
別称難波天皇
聖帝
父親応神天皇
母親仲姫命景行天皇皇曾孫)
皇后葛城磐之媛
八田皇女応神天皇皇女)
子女履中天皇
住吉仲皇子
反正天皇
允恭天皇
大草香皇子
草香幡梭姫皇女雄略天皇后)
皇居難波高津宮
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仁徳天皇(にんとくてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:仁コ天皇、神功皇后摂政57年 - 427年?[1][2]〈仁徳天皇87年1月16日〉)は、日本の第16代天皇。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇。実在したとすれば4世紀末から5世紀前半に在位したと推定されている。その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称される。
略歴

4世紀末から5世紀前半に実在した可能性のある天皇。誉田天皇(応神天皇)の第四皇子。母は五百城入彦皇子景行天皇皇子)の孫の仲姫命(なかつひめのみこと)。誉田天皇の崩御後、最も有力と目されていた皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ったが、太子の薨去により即位したという。『日本書紀』では皇位を譲るための自殺と伝えられる。この間の3年は空位である。

即位元年、難波高津宮に都を移す。即位2年、武内宿禰の孫娘の葛城磐之媛を皇后とした。即位4年、人家の(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した[3]。その間は倹約のために宮殿の屋根のさえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられている。

一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。即位30年には異母妹の八田皇女までも妃にしようとしたことから、激怒した皇后はついに山背の筒城岡に別居するに至った。『日本書紀』では怒りを解かないまま皇后は即位35年に崩御、即位38年に天皇は八田皇女を皇后とした。一方で『古事記』では天皇が八田皇女を諦めたような描写がある。皇后との間には去来穂別尊(履中天皇)、 住吉仲皇子、瑞歯別尊(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)らを得た。また日向髪長媛との間に大草香皇子草香幡梭姫皇女(大泊瀬天皇(雄略天皇)皇后)を得た。即位67年に百舌鳥耳原を陵墓地と定め、即位87年に110歳で崩御。『古事記』に83歳。


大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと) - 『
日本書紀

大鷦鷯尊(おほさざきのみこと) - 『日本書紀

聖帝(ひじりのみかど) - 『日本書紀』・『古事記

大雀命(おほさざきのみこと) - 『古事記

難波天皇 - 『万葉集

漢風諡号である「仁徳天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
事績
即位

応神天皇40年1月8日、父・誉田天皇から兄・大山守命と共に「年長の子と年少の子はどちらがより愛おしいか?」と尋ねられた。大山守命が年長だと答えたが、大鷦鷯尊は末弟の菟道稚郎子に跡を継がせたいという父の気持ちを見抜いていたので「年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。1月24日、菟道稚郎子は皇太子、大鷦鷯尊は太子の補佐役、大山守命は山川林野の管理人に任じられた。

翌年の応神天皇41年2月、誉田天皇が崩御すると大山守命は菟道稚郎子から皇位を奪おうと軍勢を整えた。大鷦鷯尊が菟道稚郎子にこれを知らせると、菟道稚郎子は大山守命を罠に嵌めて川に落として溺死させた。しかし即位が決定したはずの菟道稚郎子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとした。大鷦鷯尊はあくまで菟道稚郎子を即位させるつもりだったので皇位の譲り合いとなった。これが三年続き、貢物の届け先を巡って海人が右往左往する逸話が残っている。事態を重く見た菟道稚郎子は自ら死を選び(『古事記』では病死)、大鷦鷯尊が即位することとなった。
聖帝の治世「仁徳天皇」松岡寿

即位元年1月3日、都を大伴氏などが本拠を置いていた難波の上町台地、難波高津宮に遷した。

即位4年、天皇が高い山から国を見渡すと、どの家にも煙が昇っていなかった。これにより民衆が炊事もできないほど貧しいことを知った。そこで以後三年間、課税と労役を全てとりやめることにした。そして自らは、宮の屋根が壊れ雨漏りしても直すこともしなかった。

即位7年、三年が経過して再び山の上から国を眺めると、どの家からも煙が立ち上っていた。諸国は課税再開を要請したが、結局即位10年まで課税停止は延長された。

その後は河内平野一帯で大規模な治水工事を行った。日本書紀には、次の事績が記されている。
河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。

山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北?久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。

茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。

和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)、依網池(よさみいけ、大阪市住吉区)を築造した。

灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。

紀角宿禰百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。

紀角宿禰に無礼を働いたとして百済から日本に送られた酒君鷹狩を始めさせた。

朝貢を拒否した新羅に上毛野竹葉瀬田道の兄弟を派遣して討伐した

呉(南朝宋)と高麗(高句麗)が朝貢してきた。

また、古事記には、次のとおり記されている。この天皇の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。
皇后の嫉妬

即位2年3月、葛城襲津彦の娘で武内宿禰の孫にあたる葛城磐之媛を皇后とした。難波を拠点とする天皇にとって、大和を押さえる葛城氏は重要な同盟者だった。磐之媛は去来穂別尊・瑞歯別尊・雄朝津間稚子宿禰尊を生み、それぞれが履中天皇反正天皇允恭天皇となった。


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