仁壁神社
境内
所在地山口県山口市三の宮2-6-22
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度11分20.87秒 東経131度29分30.51秒 / 北緯34.1891306度 東経131.4918083度 / 34.1891306; 131.4918083 (仁壁神社)
仁壁神社(にかべじんじゃ)は、山口県山口市三の宮にある神社。式内社、周防国三宮で、旧社格は県社。 現在の祭神は次の通り[1]。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳における祭神の記載は1座。当初の祭神については下照姫命とする説があるほか[2]、『仁壁神社鎮座考』では味鋤高彦根命を主神、下照姫命を相殿神として、住吉三神を合祀とする。 創建は不詳。社伝では、崇神天皇7年に各地の神社の神封戸を定めたときに、当社にも宮野庄を神封戸としてあてたとする。 元は宮野下村に鎮座していたが、現在地で一日中玉光が飛ぶ奇瑞があったとして、長治元年(1104年)に現在地に遷座したという。 国史では天安2年(858年)に「仁壁神」の神階が正六位上から従五位下に、貞観9年(867年)に「仁璧神」の神階が従四位下に昇叙された旨が記されている[2]。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では周防国吉敷郡に「仁壁神社」と記載され、式内社に列している(吉敷郡では唯一)[2]。 その後、天慶2年(939年)・永保元年(1081年)・治承4年(1180年)・元暦4年(文治3年、1187年)に神階が昇叙され、正三位に達している[2]。 建久6年(1195年)の「周防宮野荘立券文」には「仁戸宮社」と見え、社領として6丁下品上生20歩・田3丁9段中品中生20歩・畠2丁上品下生と記されている[2]。 永禄12年(1569年)に大内輝弘が山口に乱入(大内輝弘の乱)した際に焼失したが、毛利輝元により再建[2]。正徳2年(1712年)に再び社殿を焼失し、享保5年(1720年)に毛利吉元によって再建された[2][3]。 明治維新後、明治6年(1873年)に近代社格制度において県社に列している[1]。 平成9年(1997年)、火災(放火)により享保5年以来の社殿を焼失。平成12年(2000年)に本殿、平成13年(2001年)に拝殿・幣殿、平成22年(2010年)に神楽殿が再建されている[3]。 なお本殿が昭和52年(1977年)11月11日に山口県指定有形文化財に指定されていたが、平成9年(1997年)に焼失している。
祭神
主祭神
右殿:下照姫命(したてるひめのみこと)
中殿:表筒男命(うわつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・底筒男命(そこつつのおのみこと)
左殿:味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
配祀神
瑞珠殿:神産日神(かみむすびのかみ)ほか7柱
歴史
創建
概史
神階
天安2年(858年)2月16日、正六位上から従五位下(『日本文徳天皇実録』) - 表記は「仁壁神」。
貞観9年(867年)3月10日、従五位下から従四位下(『日本三代実録』) - 表記は「仁璧神」。
境内
本殿
幣殿
拝殿
神楽殿
文化財
山口市指定文化財
有形文化財
木造獅子頭(彫刻) - 江戸時代初期、慶長13年(1608年)の作。総長55.7センチメートル。昭和57年(1982年)3月2日指定[1]。
交通アクセス
鉄道:西日本旅客鉄道(JR西日本)山口線 上山口駅または宮野駅
脚注[脚注の使い方]^ a b c 境内説明板。
^ a b c d e f g h 仁壁神社(平凡社) 1980.