西暦換算に関する注意
1582年以前に発生した日本の地震の西暦換算については、ユリウス暦であるか、グレゴリオ暦であるかを明記してください。Wikipediaの表記ガイドでは原則としてユリウス暦で表記することになっていますが、『理科年表』など多くの文献ではグレゴリオ暦表記となっており、混乱を避けるために注意が必要です。
詳細は日本の歴史地震の西暦換算を参照してください。
仁和地震
本震
発生日仁和3年7月30日
ユリウス暦887年8月22日
グレゴリオ暦887年8月26日
震央.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度00分 東経135度00分 / 北緯33.0度 東経135.0度 / 33.0; 135.0
仁和地震(にんなじしん)は、平安時代前期に起きた大地震。南海トラフ沿いの巨大地震と推定されている[2]。 仁和3年7月30日申刻(ユリウス暦887年8月22日16時ごろ、グレゴリオ暦887年8月26日)、五畿七道諸国にわたる大地震が発生した。 本地震の信頼度の高い根本史料[3]とされる『日本三代実録』には、京都において諸司の舎屋や民家の多くが潰れ死者も出し、五畿七道諸国が同日大きく揺れ官舎が倒壊、津波による多数の溺死者を出したとする記録がある。余震は8月末ごろまで記録されている[4][5]。 特に摂津において津波の被害が甚大であったとされ、京都では長い地震動があったなど近畿地方の震害が著しい。はるか後世に編纂された史料であるが、淡路島の洲本藩士が編纂した郷土史である『味地草』には仁和三年七月の地震により海に突出していた砂嘴が津波で失われたことが記される[6]。一方で、土佐における津波や大地の沈降・隆起など記録が確認されておらず、高知県には白鳳地震についての口碑に残る言い伝えはいくつか存在するが、仁和地震によるものが確認されていない[7][8]。 卅日辛丑、申時、地大震動、経歴数剋震猶不止、天皇出仁寿殿、御紫宸殿南庭、命大蔵省、立七丈幄二、為御在所、諸司倉屋及東西京廬舎、往往顛覆、圧殺者衆、或有失神頓死者、亥時又震三度、五畿内七道諸国、同日大震、官舎多損、海潮漲陸、溺死者不可勝計、其中摂津国尤甚、夜中東西有声、如雷者二、 沿岸部だけでなく離れた内陸でも被害が発生したとされている。八ヶ岳の山麓が崩壊し、千曲川を堰き止めて形成された堰止め湖(河道閉塞)が、303日後の仁和4年5月8日(888年6月20日[J]、6月24日[G])に決壊し発生した土石流が原因と考えられる洪水[9][10][11]。大月川に出来た河道閉塞の湛水量は5.8億m3と推定されている[11]。これは日本最大規模の天然ダムとされる。なお八ヶ岳山麓の崩壊については、糸魚川-静岡構造線断層帯の南部が連動して発生した地震の影響を受けた可能性も指摘されている。 『扶桑略記』 仁和三年七月卅日辛丑 信乃国大山頽崩、巨河溢流、六郡城廬払地漂流、牛馬男女流死成丘、 『類聚三代格』巻十七 去年七月卅日、坤徳失静、地震成災、八月廿日亦有大風洪水之?、前後遭重害者卅有余国、或海水泛溢、人民帰魚亀之国、或邑野陥没、廨宇変蛟龍之家、呼嗟猪沢之功未成、象耕之期奄至、顧念辺氓、誠軫中懐、朕忝以薄徳丕承洪基、内纏陟?之慟、多タ臨谷之危、重今月八日信濃国山頽河溢、唐突六郡、城廬払地而流漂、戸口随波而没溺、百姓何辜、頻罹惟禍、徒発疚首之歎、宜降援手之恩、故分遣使者、就存慰撫、宜詳加実覈施優恤、其被災尤甚者、勿輸今年租調、所在開倉賑■、給其生業、若有屍骸未歛者、官為埋葬、播此洪沢之美、協朕納隍之心、主者施行、/仁和四年五月廿八日 また臼杵郡東海村(現・延岡市)にあった護国寺である慈通寺(現・円通山千光寺)が流失したという記録[12]や、同村の川島熊野大権現が倒壊した記録[13]から、日向においても津波や震害があったとされる。 このような「五畿七道大地震」は南海道沖を震源とする巨大地震と推定される[14]。 今村明恒(1947)は、『扶桑略記』の山が崩れ川が溢れた記録から同日に「信濃北部地震」が発生したものと考えた[15]。しかし河内晋平(1982)は『類聚三代格』には仁和4年5月8日に山崩れと川が溢れた記録があり、『扶桑略記』にはこの日付が記されていないことを指摘して「信濃北部地震」は存在しなかったとした[16]。 津波があることは外帯における地震を示唆するものであるが土佐における記録が確認されておらず、中央構造線沿いの地震であるとする説もある[17]。 河角廣(1951)は規模MK = 7.5 を与えているが根拠は示しておらず[18]、マグニチュードは M = 8.6に換算されている。また、M 8 - 8.5[19]、あるいはその中間値を四捨五入したM 8.3[5]などと推定されているが断片的な記録しか有しない歴史地震であるため数値は不確定である。また記録が乏しいため、マグニチュードや震央の根拠とされる推定震度も、京都が震度V、不確実な(誤記・後述)安房でe(地震)とされているだけである[20][21]。 『日本三代実録』には仁和地震から約1ヶ月後の8月26日に巻第五十が終結するまでの間、地震の記録が多く現れる。具体的な震源は不明だが、余震活動が活発であったことを窺わせる(同日に光孝天皇が崩御したため[3]。本来は同日以後を記した『日本三代実録』に続く新しい正史が編纂される筈であったが完成しなかった(新国史))。その後も『日本紀略』には、仁和3年を中心に余震と見られる地震の記録が多く見られる。また仁和地震直前にも京都における地震の記録がある[22]。
地震の記録
『日本三代実録』巻第五十、7月30日の地震の記録。亥時(22時頃)余震が3回あった。
地震像
余震活動の記録
仁和3年5月29日(887年6月24日[Jユリウス暦]、6月28日[Gグレゴリオ暦]) - 地震
7月2日(7月25日[J]、7月29日[G]) - 夜地震
7月6日(7月29日[J]、8月2日[G]) - 是夜 地震
7月30日(8月22日[J]、8月26日[G]) - 仁和地震
8月1日(8月23日[J]、8月27日[G]) - 昼夜地震二度
8月2日(8月24日[J]、8月28日[G]) - 昼地震三度
8月4日(8月26日[J]、8月30日[G]) - 地震五度
8月5日(8月27日[J]、8月31日[G]) - 昼地震五度 夜大震 京師人民 出自廬舎 居于衢路
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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