仁保村_(広島県)
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「仁保島村」はこの項目へ転送されています。同名の歴史資料館については「仁保島村 (資料館)」をご覧ください。

にほむら
仁保村
廃止日1929年4月1日
廃止理由編入合併
三篠町己斐町草津町古田村牛田村矢賀村、仁保村 →広島市
現在の自治体広島市
廃止時点のデータ
日本
地方中国地方山陽地方
都道府県広島県
安芸郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
面積10.286 km2.
総人口12,987人
(1925年)
隣接自治体広島市・府中村船越町海田市町矢野町坂村
仁保村役場
所在地広島県安芸郡仁保島村淵崎字単田1117番地(現・広島市南区仁保四丁目)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度18分44秒 東経132度25分56秒 / 北緯34.31231度 東経132.43236度 / 34.31231; 132.43236 (仁保村)座標: 北緯34度18分44秒 東経132度25分56秒 / 北緯34.31231度 東経132.43236度 / 34.31231; 132.43236 (仁保村)
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仁保村(にほむら)は、かつて広島県安芸郡に存在したである。1929年昭和4年)4月1日広島市編入合併して廃止された。1917年大正6年)までの名称は仁保島村(にほじまむら / にほしまむら)。
地理

仁保村(仁保島村)の村域は、今日でいう狭義の「仁保」(仁保一?四丁目、仁保南一・二丁目、仁保新町一・二丁目、仁保沖町)よりもはるかに広い地域を包括しており、猿猴川西岸の仁保島に位置する淵崎(ふちざき)・本浦(ほんうら)・大河(おおこう)・丹那(たんな)・日宇那(ひうな)の5集落のみならず、対岸の堀越(ほりこし)・向灘(向洋 / むかいなだ)両集落、および広島湾に浮かぶ似島(にのしま)・金輪島(かなわじま)・峠島大珈玖摩(かくま)島(弁天島)小珈玖摩島(小弁天島)・安堂島・宇品島の島嶼を併せた境域がこの村の発足時にして最大時の村域であり(のち宇品島が広島市に編入され分離)、一時は「日本で最大の村」とされていた(旧村域は現在の南区の境域のかなりの部分を占めている)。いずれの島もほとんどが山地であって平地に乏しく、平地の多くは江戸時代以降の新開地(干拓地及び埋立地)である。村の中心である仁保島の大部分を占める山は、黄金山(古くは「城山」「馬耳山」とも)と呼ばれ、この山を一周して麓の集落を通る仁保島以来の古道は「旧道」(「旧本通り」とも)と称される。村役場は仁保島側の淵崎字単田(ひとえだ / 現在の仁保四丁目)に置かれた。
歴史「広島市#歴史」も参照広島の新開地発展図(『概観広島市史』1955年) / 現在の仁保地区を含む黄金山麓が広島築城時には島嶼(仁保島)であり、江戸時代の東新開・皆実新開の造成によって陸続きになったことが示されている。
地名の由来

「仁保島」は「邇保島」「香島」「鳰島」とも書き、遅くとも鎌倉期から存在する古い地名である。『芸藩通志』によればその由来は水鳥の「鳰」(にほ)とされるが、村内の「邇保姫神社」(にほひめじんじゃ / 南区西本浦町)に由来するという説(広島県の地名)、あるいは同社の名称の由来となっているニホヒメ(ニホツヒメ)自身が朱砂(丹 / に)と深い関わりを持つ女神であることから、古代においてこの地が朱砂の産地すなわち「丹生」(にふ)であったという説( ⇒みなみ区回遊MAP)もある。
中世

この時期の仁保島は、比治山・宇品島・江波山皿山などと同様に文字通り広島湾頭に浮かぶ小島嶼の一つであった。室町期、府中城主白井氏の一族により現在の黄金山頂に築城がなされ仁保城と称された。広島湾頭に位置する軍事的重要性から仁保城は安芸武田氏大内氏の間の争奪戦の対象となり、毛利氏が最終的にこの城を支配した(この時期の詳細は仁保城参照)。
近世

江戸期の初め、広島藩領となった仁保島は、向灘(今日の向洋地区)や似島金輪島宇品島、峠島など近隣の島嶼とともに「仁保島村」としてまとめられた。平地に乏しく農業に不適な地形であるため村の主要な産業は漁業であり、仁保島側の柞木(ほうそぎ)浦・淵崎浦・日宇那浦・丹那浦・大河浦・本浦に加え先述の向灘浦が「仁保七浦」と称され村内漁業の拠点であった。1662年、東新開(現在の東雲地区)および西新開(のち皆実新開と改称 / 現在の皆実町出汐地区)の造成により仁保島が広島城下と、ついで1671年には堀越新開の造成によって向灘が府中村(現・安芸郡府中町)と、それぞれ地続きになった。本浦および淵崎の住民はこの地に耕地を求め、米や麦の栽培を行った。江戸中期には海苔カキの養殖が盛んになり村の重要な特産品になった。またこの時期、村民の出漁は遠く対馬まで及んだ。
近代

明治以降も仁保島村の名称と境域はそのまま引き継がれたが、1884年(明治17年)、宇品築港・宇品新開造成の事業が開始されると、仁保島村、特に大河の漁民は海苔・カキの養殖場が消滅するとして激しい反対運動を展開した。しかし結局埋め立ては計画通り行われたので大河の漁業は大きな打撃を受け、同時に広島市と地続きとなった宇品島は1904年仁保島村から分離し広島市に編入された。この頃より村では、1885年の第1回官約集団移民で村民900名が海外渡航したのを皮切りに、ハワイ北米などへの海外移民が盛んになり、「移民県」と称された広島県のなかでも特に移民多出地域として知られた(1906年には仁保島高等小学校内に移民補習夜学校が開校、大正期には大河尋常高等小学校で副読本『移民と教育』に基づく移民教育が行われている)。また農業では国策による奨励もあって棉花栽培が盛んに行われた。1920年(大正9年)には猿猴川東岸側(堀越)に建設された日本製鋼所工場への通勤の便を図るため山陽本線向洋駅が開業した(駅自体は府中村に所在)。そして村内の新開地には次第に人家や工場が建設、昭和期に入ってからは漁業から商工業に転職する傾向が著しくなり、広島市への合併に至る。
沿革

1878年7月 : 郡区町村編制法により広島県第三大区(安芸郡)第二小区を安芸郡仁保島村と改称。

1889年4月1日 : 町村制発足による仁保島村の設置。

1904年9月15日 : 字「宇品島」(現在の南区元宇品町)が広島市に編入。

1917年8月31日 : 仁保村と改称。

1929年4月1日 : 広島市に編入し消滅。旧村域は「仁保町」となる。

大字

仁保島村・仁保村では大字は編成されなかったが、多くのは、一般的には次に示す9集落(広島市への編入合併の時点 / その後柞木が分離し10集落)にまとめられており、1890年 - 94年、堀越・金輪島を除く7集落(およびこの時点では仁保島村に属していた宇品(宇品島))にはそれぞれ「区会」が設置されていた。以下、集落の名称は『仁保村志』による。
仁保島側


淵崎 : 現在の仁保地区の大部分(ただし仁保新町は除く)にほぼ相当。古い地名として知られる「地方」(じがた)は仁保一丁目付近の字である。

柞木 : もともと現・仁保三丁目付近の字で淵崎に属したが、広島市への合併後、1941年に分離した。

本浦 : 現在の本浦地区にほぼ相当。

大河 : 現在の大河地区にほぼ相当。

丹那 : 現在の丹那町にほぼ相当。

日宇那 : 現在の日宇那町・楠那町にほぼ相当。

向洋側


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