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出典検索?: "仁丹" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年7月)
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この項目では、医薬部外品について説明しています。この薬品の製造会社については「森下仁丹」をご覧ください。
仁丹
仁丹(じんたん)は、森下仁丹から発売されている口中清涼剤である。医薬部外品。 桂皮や薄荷脳など、16種類の生薬を配合して丸め、銀箔(発売当初から戦前まではベンガラ)でコーティングした丸薬。独特の匂いをもつ。そのためもあって、携帯する際には専用の携帯ケースを使う。銀でコーティングをするのは銀の殺菌効果で保存性を高めるためである。 パッケージに描かれた登録商標である「大礼服マーク[1]」は有名である。仁丹の宣伝普及に伴い、大礼服着用の際の二角帽子を軍人が俗称として「仁丹帽」と呼ぶようになったほどである(ただし実際には、軍人ではなく外交官をイメージしてデザインされたものである[1])。仁丹の看板と浅草十二階 パッケージには「JINTAN」というローマ字のロゴもあるが、海外輸出用では、インドネシア向け「DJINTAN[2]」、中南米向け「DZINTAN」という風に、現地で「ジンタン」と読めるようつづりを使い分けた。 派生品として、グリーン仁丹、梅仁丹、レモン仁丹といった商品が発売された[3]。 「仁丹」の名前の由来は、儒教の教えの中心で最高の徳とされる「仁」と良薬や丸薬の意である「丹」を合わせたもので、 藤沢南岳と西村天囚からのアドバイスを受け、創業者である森下博が命名[4]、1900年(明治33年)に商標登録した。 仁丹は1905年(明治38年)に「懐中薬」として発売された[5]。発売当初の仁丹は赤色で大粒の物だったが、年を追うごとに改良が重ねられ、1929年(昭和4年)に現在の形となる銀粒仁丹が発売される[5]。 医療水準が十分でなかった、当時の日本において、創業者の森下博が「病気は予防すべきものである」という考えに基づき、毎日いつでも服用できるようにと、台湾出兵に同行した際、現地の住民が服用していた丸薬をヒントに開発したものである[3]。発売当時は、謳い文句として「完全なる懐中薬・最良なる毒消し(もしくは最良なる口中香剤)」という二文がついていた。なお、ここでいう「毒」とはコレラや梅毒のことを指しており、特にコレラは明治・大正期においては致死率の非常に高い病気であった。 大正期に入ると、当時猛威を振るっていたコレラに対しての予防を前面に打ち出し、謳い文句が「消化と毒けし[6]」に変わる。当時はコレラに対する治療法が徹底されていなかったこともあり、全国紙に全面広告を幾度も掲載して「消化を良くし、胃腸を健やかにすべし」との考えを遍く広め定着させたことで、仁丹の売り上げはさらに飛躍することになる。なお昭和に入ると一頁広告の隅に「昭和の常識」と称した豆知識コーナーが添えられるようになる。 明治・大正期に大阪の梅田・難波や東京の上野・浅草に広告塔(浅草のものは、凌雲閣を模したもので「仁丹塔」と呼ばれ親しまれた[7][8])を設置するなど、広告展開を幅広く行った商品としても知られる。当時は非常に珍しい存在であった飛行機で空からビラを撒いたり[3]、上野の広告塔では掲げられた「仁丹」の2文字に電球を配して夜でもわかるようにするなど、パブリシティを重視し、その広告宣伝手法は当時から話題を呼んでいた。
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歴史