人間
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この項目では、「人間」の概念や概説について説明しています。その他の用法については「人間 (曖昧さ回避)」、「」、「人類」をご覧ください。

人間(にんげん、(: human being[1])とは、以下の概念を指す。

人の住むところ。世の中[2]。世間。人が生きている人と人の関係の世界。またそうした人間社会の中で脆くはかないさまを概念的に表す。仏教用語。

上記から転じて、社会性またはとしての人格を中心に捉えたありかたや関係性。また、その全体[2]

ひとがら[3]。「人物」[2]

概説

関係性を重視して「人‐間(あいだ)」という名称があてられたとされている。旧約聖書の『創世記』において、人間はすべて神にかたどってつくられた(「神の似姿」)、とされ、身分や性別に関係なく、人間であれば誰であっても神性を宿している、とされた。アリストテレスは著書『政治学』において、人間とは、自分自身の自然本性の誠意をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(つまり《善く生きること》を目指す人々の共同体)をつくることで完成に至る、という(他の動物とは異なった)独特の自然本性を有する動物である、と説明した。キリスト教では、旧約聖書の創世記で示された「神の似姿」という考え方が継承され、平等が重んじられ、一番大切なのは(自分だけを特別視するような視点ではなく)「神の視点」だとされるようになった。→#人間観の遷移

「人間らしさ」について、説明する方法は幾通りもあるが、「言葉を使うこと」「道具を使うこと」などはしばしば挙げられている。→#性質
人間観の遷移
旧約聖書

旧約聖書では、すべてはというフィルターを通して語られているが、そこでは同時に人間観や世界観が語られている。殺人不倫近親相姦、大量殺人、権力抗争といった人間の赤裸々な姿が描かれており、それらの描写やドラマは、数々の芸術作品のモチーフともなってきた歴史がある[4]システィーナ礼拝堂の天井画「アダムの創造」

創世記には天地創造がしるされているが、そこには以下のようなくだりがある。「我々にかたどり、我々に似せて、人をつくろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うもの全てを支配させよう」神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 ? (創世記 I章26-27)

旧約聖書以前の時代、古代エジプトバビロニアにおいては、あくまで王だけが神にかたどってつくられた、とされていて、人間全体がそうだとはされていなかった。それが創世記においては、人間はすべて神にかたどってつくられた、とされた。つまり、身分や性別に関係なく、人間であれば誰であっても神性を宿している、という人間観が述べられている[5]。また、ここでは人間が自然や動物の支配者とされている。自然や動物を支配したり管理したりしようとする西洋的自然観(人間観)は、この創世記の記述の影響を受けている[5]、とも言われる。
古代ギリシャ

人間については、古くから哲学者らによって考察されていた。

ソクラテスプラトンアリストテレスらによって構築された人間観は、人間の普遍的特質に関心を集中させている。古代ギリシャの人間像というのは、近現代に見られるような、具体的な犯すべからざる個人としての人間といったものではない、とビショフベルゲルは指摘した[6]アリストテレス

アリストテレスは『ポリティカー』の一節において人間を「ζ?ον πολιτικ?ν (zoon politikon ゾーン・ポリティコン)」と呼んだ。(『ポリティカー』 1252b-1253a[7]

アリストテレスはその直前の文で、ポリスというものを「ポリス的 - 政治的 - 共同体」と定義した[8]。アリストテレスの言うポリスとは、単に生きることではなく、《善く生きること》を目的に掲げて互いに結びついた市民(= politai)の共同体のことであり、人間がつくるさまざまな共同体の中で最高最善の共同体だと位置づけられていた[8]。ポリス的共同体においてこそ人間の自然本性が完成されるのだから、とアリストテレスは考えた[8]。そしてポリスというのは、人間にとって究極の目的としての自然本性である[8]。よって、アリストテレスが主張したことは、人間とは自己の自然本性の完成をめざして努力しつつ、ポリス的共同体(=《善く生きること》を目指す人同士の共同体)をつくることで完成に至る、他の動物には見られない自然本性を有する動物である、ということである[8]

(誤解が流布しているようだが)アリストテレスは、人間が単に社会を形成している、とか、社会生活を営む一個の社会的存在である、などと言ったのではない[8]

ζ?ον πολιτικ?νは日本語での訳語は定まっていないが、「ポリス的動物」、「政治的動物[注釈 1]」、「社会的動物[注釈 2]」などと訳されている。
キリスト教12世紀のモザイクイコン全能者ハリストス(キリスト)アギア・ソフィア大聖堂

キリスト教では、旧約聖書の創世記で示された「神の似姿」という考え方が継承された。キリスト教に基づく倫理観では、一番大切なのは(日本人の多くが考えているような「他人の眼」ではなく)創造主であるの眼、神の視点である[9]。さらに、4?5世紀の神学者アウグスティヌスによって原罪の思想が始められたともされ、これはその後西方教会においては重要な思想となった[注釈 3]。キリスト教では、イエス・キリストを媒介として、あらゆる人間の同等の価値と各個人の不可侵性が強調された。中世ヨーロッパにおいては、人間が宇宙の中心的存在であるという人間像が席巻した[11]

正教会では、神の像と肖として人間が創られたという教えが人間観において強調される。アウグスティヌスの影響は正教会には希薄であった。
中世?近世

1400年代?1500年代の頃になり、ガリレイケプラーニュートンらの活動によって新たな世界像が提示されるようになると、人間が宇宙の中心であるという図式が揺らぎはじめた。また、デカルトによって人間の身体までも、化学的、物理的組織だとする視点が広く流布されるようになった。ただし、デカルトは心身二元論を採用しつつ、人間と動物をはっきりと区別した[11]

1700年代になると、ラ・メトリーがデカルトの概念を継承し「人間機械論」を発表。1800年代にはダーウィン自然選択に基づく進化論を唱え、動物と人間との境界を取り払いはじめた[11]
近代

人間は(肉体はともかくとして)精神の働きという点であらゆる存在に対して秀でているという考え方から「万物の霊長(英語: The Lord of Creation)」とさかんに呼ばれた(霊長とは、すなわち精神的に優れている、の意味)[12]
現代第二次世界大戦時代、人間(科学者技術者政治家軍人ら)は、一瞬にして10万人以上の人々を殺戮するような原子爆弾大量破壊兵器核兵器の一種)を作り出してしまった(写真:「ファットマン」のキノコ雲)

現代の生物学ではネオダーウィニズムが主流で、それは「生物の進化」という考え方を基盤として成り立っているため、自然科学者や先進国の知識人などで、現代生物学を受け入れている人々は「人間は猿、ネズミのような姿をしていた祖先生物、さらに遡れば単細胞の微生物から進化してきた」といったように見なしている[注釈 4](生物学的な人間像はヒトが参照可)。

ただし、人類全体ではダーウィン風に考えている人が必ずしも多数派というわけではなく、例えばアメリカ合衆国などでは伝統的なキリスト教の世界観および人間観を保ち続けている人の方がむしろ多数派であることなどが知られている(詳細は「アメリカ合衆国の現代キリスト教」を参照)。

現在、人間の学名は「ホモ・サピエンス」(知恵のあるヒトの意)で、やはり言語文化などの(生物学的存在以上に多くの)側面を備えているとされている[注釈 5]。この学名と同時に作られた名に「ホモ・エレクトゥス(直立するヒト)」「ホモ・ハビリス(器用なヒト)」(以上は生物学用語)というのがあり、後に社会面から捉えられた「ホモ・○○○(?するヒト)」といった造語の元となった。遊びに目を留めたホイジンガの「ホモ・ルーデンス」といった表現はその典型である[13]

技術との融合により圧倒的な進化を遂げた人間の姿として、ポストヒューマンというアイデアも出てきている。
教育と人間

論語』の陽貨篇第十七には右のように書かれている。「子曰く、性、相近きなり。習い、相遠きなり」 (意味:師は言われた。人間は、生まれつきの性質は同じようなものであるが、習い(=教育しつけ)によって、大きく異なってゆくものだ。)

ジャン=ジャック・ルソーは「植物は耕作によりつくられ、人間は教育によってつくられる」と述べた。

イマヌエル・カントは『教育学講義』において「人間が人間となることができるのは、教育によってである」と述べた。

現代でも日常的に「人は教育によって人間になる」「人は教育によってのみ人間となる」「しつけと教育によって人間になる」「教育によってヒトが人間になる」 といったことが多くの人々によって言われ続けている。
性質プラトンアリストテレスラファエロの絵画)

「人間らしさ」(人間の特徴)の説明のしかたはいくつかあるが、言葉が使え 言葉でコミュニケーションをすること、文化を持つこと(そしてそれを仲間や子に伝えること)、道具を使い道具を作ること、などが挙げられる。

人間の特徴のひとつは、言語を現在ある様な状態で使用し、自分のの中で言語を用いて考え、以て互いの意思疎通を図ることにある。

人間は文字言語を抽象的なシンボル象徴)として扱ったり、論理思考(論理学)を行い、多様な事象に様々な解釈を行う。多くの研究者の主観では知能地球上の全ての生物の中で最も高度であると考えられている。

好奇心や知識欲は比較的旺盛で、その多くは少なからず自身の関心事に対して「知ること」と「考えること」を好む性質も見られる。一般的には、様々な意味で人間自身が最も人間の関心を引くようである。

人間は、知識だけでなく、自らの精神にも注意を向けることができる。「心のありかた」や感じ方そのものを探求するだけでなく、それを自ら積極的に変革する努力を行うこともあり、例えば瞑想内観などを行うこともある。宗教体系を持ち、それによって生活様式を整えている人間も多い(例えばアブラハムの宗教の信者だけでも30億人を超えている)。

道具を作り利用する能力が他の生物よりも長けていることも挙げられる。現在では機械装置といった高度化した道具を作り利用する事で、ほぼ他の生物が生存不可能な極限環境でも生活することができるまでになっている。ただし極限環境での生活は一般に負担が大きいため(コストなど)、大抵は着衣のみの調節で生活可能な地域に分布している。

記憶は、多くの点で自分が誰であるかを形作る。それらは内部の伝記、つまり人生で何をしたかについて自身に語る物語を構成している。誰とつながっているのか、人生の中で誰に触れたのか、そして誰が私たちに触れたのかを教えてくれる。要するに、記憶は、人間であるという本質にとって非常に重要である。つまり、加齢に伴う記憶喪失は、自己の喪失を表す可能性がある。したがって、思考力と記憶力の低下に関する懸念が、年齢を重ねるにつれて人々が抱く最大の恐怖の中にランク付けされるのは当然のことである[14]
歴史詳細は「世界の歴史」を参照

現生人類は、アフリカで生まれ、その生息範囲を次第に広げ、中近東を経由してヨーロッパアジア、さらに氷期などの気候の変動も影響して南アメリカまで到達した。6000-5000年前にもなると、世界の様々な地域で農業が始まり、同時期に文明が発生した。そして、文明は範囲を広げ、現代ではヒトはそのほとんどが文明の下に暮らすようになっている(初期の文明としてはナイル川ユーフラテス川インダス川黄河流域に発生したものが有名ではあるが、これらの地域のみで文明が発生したとする「世界四大文明」という概念はほぼ否定されている)。


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