人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:人種的󠄁差別撤廢提案、英語: Racial Equality Proposal)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、日本が主張した、「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。この提案に当時のアメリカ合衆国大統領だったウッドロウ・ウィルソンは反対で事が重要なだけに全員一致で無ければ可決されないと言って否決した。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。 日本政府内において誰がいつ最初に人種差別撤廃に関する提案を行ったかは現在も明らかになっていないが[1]、その背景の一つとして、当時アメリカ合衆国、カナダ等で問題となった日系移民排斥問題がある。外務次官幣原喜重郎は人種差別撤廃提案により排日問題解決のきっかけを作ろうとしていた[2]。また、外交調査会の伊東巳代治に代表される、国際連盟で多数を占めるであろう「『白人』人種」の国が人種的偏見により「帝国の発展」を阻害する動きに出るのではないかという危惧もあった[3]。 1918年(大正7年)11月13日の外交調査会において、内田康哉外相が講和会議に対する外務省意見案を発表したが、その中の国際連盟問題の項目で「人種的偏見の除去」が講和後に設立される国際連盟参加の条件であると述べている[4]。この意見案は大筋で外交調査会に承認され、日本全権の正式な方針となった。全権の一人である牧野伸顕元外相は、人種差別撤廃提案の実現よりも連盟設立に際して諸外国に積極的に協力するべきと考えていたが、この意見には伊東が強く反発した[5]。 1919年(大正8年)1月14日、パリに到着した日本全権団は人種差別撤廃提案成立のため、各国と交渉を開始した。1月26日に珍田捨巳駐英大使はアメリカのロバート・ランシング国務長官と面会し、ランシングが提案に肯定的であるという印象を得た。2月4日にはウィルソンの友人であるエドワード・ハウス名誉大佐に、連盟規約に挿入するべき文章として、「甲案」と「乙案」の二つの案を内示した。ハウスはこのうち乙案に賛意を示し、ウィルソンも賛成するであろうと述べた。翌日ハウスとウィルソンが会談し、日本側に人種差別撤廃提案を連盟規約に挿入することを大統領提案として提出するつもりであると伝達した[6]。「最大の障害」であると見られていたアメリカとの調整が成功し、日本側は提案成立に大きな自信を得た。 ところが、三大国の一つであるイギリスとの交渉は難航した。イギリス帝国内の自治領であるオーストラリア、カナダがこの提案に強く反対しており、日本が直接交渉を行っても妥協は成立しなかった。オーストラリアは白豪主義体制を国是としていただけでなく、労働問題が目下の課題となっていた。さらに選挙が目前に迫っていたこともあり、この提案は受け入れがたいものであった[7]。イギリス全権のロバート・セシル元封鎖相、アーサー・バルフォア外相は個人的には日本の立場に賛成するとしたものの、問題が重大であり、人種差別撤廃という問題を連盟規約で扱うのは妥当ではないと回答した[8]。
提案策定
提案内示と講和会議牧野伸顕