人種的差別撤廃提案
[Wikipedia|▼Menu]
国際連盟委員会。前列左から珍田捨巳日本駐英大使)、牧野伸顕(日本元外相)、レオン・ブルジョワフランス元首相)、ロバート・セシルイギリス元封鎖相)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドイタリア王国首相)、 エピタシオ・ペソア(英語版)(ブラジル上院議員、後に大統領)、エレフテリオス・ヴェニゼロスギリシャ王国首相)。後列にはエドワード・ハウス(アメリカ、左から3人目)、ロマン・ドモフスキ(英語版)(ポーランド、左から5人目)、ヤン・スマッツ南アフリカ連邦国防相、左から8人目)、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領、左から9人目)、カレル・クラマーシュチェコスロバキア首相、左から10人目)、顧維鈞中華民国駐米公使、左から12人目)、など

人種的差別撤廃提案(じんしゅてきさべつてっぱいていあん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:人種的󠄁差別撤廢提案、英語: Racial Equality Proposal)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議国際連盟委員会において、日本が主張した、「国際連盟規約」中に人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。この提案に当時のアメリカ合衆国大統領だったウッドロウ・ウィルソンは反対で事が重要なだけに全員一致で無ければ可決されないと言って否決した。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。
提案策定

日本政府内において誰がいつ最初に人種差別撤廃に関する提案を行ったかは現在も明らかになっていないが[1]、その背景の一つとして、当時アメリカ合衆国カナダ等で問題となった日系移民排斥問題がある。外務次官幣原喜重郎は人種差別撤廃提案により排日問題解決のきっかけを作ろうとしていた[2]。また、外交調査会伊東巳代治に代表される、国際連盟で多数を占めるであろう「『白人』人種」の国が人種的偏見により「帝国の発展」を阻害する動きに出るのではないかという危惧もあった[3]

1918年(大正7年)11月13日の外交調査会において、内田康哉外相が講和会議に対する外務省意見案を発表したが、その中の国際連盟問題の項目で「人種的偏見の除去」が講和後に設立される国際連盟参加の条件であると述べている[4]。この意見案は大筋で外交調査会に承認され、日本全権の正式な方針となった。全権の一人である牧野伸顕元外相は、人種差別撤廃提案の実現よりも連盟設立に際して諸外国に積極的に協力するべきと考えていたが、この意見には伊東が強く反発した[5]
提案内示と講和会議牧野伸顕

1919年(大正8年)1月14日、パリに到着した日本全権団は人種差別撤廃提案成立のため、各国と交渉を開始した。1月26日に珍田捨巳駐英大使はアメリカのロバート・ランシング国務長官と面会し、ランシングが提案に肯定的であるという印象を得た。2月4日にはウィルソンの友人であるエドワード・ハウス名誉大佐に、連盟規約に挿入するべき文章として、「甲案」と「乙案」の二つの案を内示した。ハウスはこのうち乙案に賛意を示し、ウィルソンも賛成するであろうと述べた。翌日ハウスとウィルソンが会談し、日本側に人種差別撤廃提案を連盟規約に挿入することを大統領提案として提出するつもりであると伝達した[6]。「最大の障害」であると見られていたアメリカとの調整が成功し、日本側は提案成立に大きな自信を得た。

ところが、三大国の一つであるイギリスとの交渉は難航した。イギリス帝国内の自治領であるオーストラリアカナダがこの提案に強く反対しており、日本が直接交渉を行っても妥協は成立しなかった。オーストラリアは白豪主義体制を国是としていただけでなく、労働問題が目下の課題となっていた。さらに選挙が目前に迫っていたこともあり、この提案は受け入れがたいものであった[7]。イギリス全権のロバート・セシル元封鎖相、アーサー・バルフォア外相は個人的には日本の立場に賛成するとしたものの、問題が重大であり、人種差別撤廃という問題を連盟規約で扱うのは妥当ではないと回答した[8]。バルフォアは説得に訪れたハウスに対し、「ある特定の国において、人々の平等というのはありえるが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と述べている[9]

講和会議において日本代表は自国の利害が絡む山東問題・南洋諸島問題以外ほとんど積極的な発言を行わず、「サイレント・パートナー」と揶揄された。ウィルソン大統領の悲願であった国際連盟設立に関しても、内田康哉外相が「本件具体的案ノ議定ハ成ルヘク之ヲ延期セシメルニ努メ」ると言ったように消極的態度に終始し、各国の失望を買った[10]。特に1月22日の五大国会議で牧野が連盟設立に関して意見を留保したことはウィルソンやデビッド・ロイド・ジョージイギリス首相の不興を買った[11]。提案の採択は極めて難しいと見られていたが、日本側は「正否はともかく、この際本問題に関する我主張を鮮明することは将来のため極めて緊要」という判断から、提案を行うことになった[8]
最初の提案

2月13日、国際連盟委員会において、牧野は連盟規約第二一条の宗教の自由についての規定の後に「各国民均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速に連盟員たる国家に於ける一切の外国人に対し如何なる点に付ても均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或は事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を追加するよう提案した[12]。牧野は人種・宗教の怨恨が戦争の原因となっており、恒久平和の実現のためにはこの提案が必要であると主張した。また、この提案によって即座に各国における人種差別政策撤廃が行われるわけではなく、その運用は国家の為政者の手にまかされると述べた[13]。牧野の提案は、「黄色人種に対する人種的偏見のために、日本が不利に陥ることのないようにせよ」とする本国からの訓令を解釈したものであった。

ベルギー代表は日本案の条文に反対し、ブラジルルーマニアチェコスロバキアの代表が日本の主張に理解を示す発言を行い、中華民国代表は本国の訓令を待つとして意見を保留した[14]。その後「宗教に関する規定」そのものを削除するべきという意見が多数となった結果、第二一条自体が削除された。牧野は人種差別撤廃提案自体は後日の会議で提案すると述べ、次の機会を待つこととなった。

この提案は日本を含んだ海外でも報道され、様々な反響を呼ぶことになる。牧野は西洋列強の圧力に苦しんでいたリベリア人[注釈 1]やアイルランド人[注釈 2]などから人種的差別撤廃提案に感謝の言葉を受けた[15]。また米国内からも、全米黒人地位向上協会 (NAACP) が感謝のコメントを発表した[16]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:87 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef