人生_(バンド)
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人生
ZIN-SAY!
別名ZIN-SAY!
出身地
日本静岡県
ジャンルテクノポップ ニュー・ウェイヴ
活動期間1985年 - 1989年
レーベルナゴムレコード、キャプテンレコード
共同作業者ケラリーノ・サンドロヴィッチ

旧メンバー卓球
畳三郎
おばば(EX分度器)
若王子耳夫
グリソン・キム
王選手
越一人

人生(じんせい、ZIN-SAY!)は、1980年代後半にインディーズで活躍した電気グルーヴの前身にあたる日本バンド[1][2][3]ナゴムレコード所属[4]1985年3月結成。1989年4月解散。
歴史

1985年、当時高校2年生だった石野卓球が地元静岡で結成。同年3月25日に静岡サーカスタウンでデビューライヴが行われた。この時は卓球ひとりでカラオケライブをしていた[5]。デビュー当初は「都節で童謡+打ち込み+エコーエフェクト」といった様式で、つたないながらも後年の電気グルーヴのスタイル[6]をやや想起させる曲調であった。後に卓球の友人関係からメンバーが増え、同年6月28日に夜中の静岡駅で行った3回目のライヴ[7]からピエール瀧(当時の芸名は畳三郎)もメンバーとして正式に参加する[8][9]

メンバーは顔にメイクをしており、卓球は白塗りに片目が赤、片目が青の独特なメイク[10]で、時に怪しいピエロ風、時にカッターシャツネクタイ、時に大ファンである鬼太郎ファッションに身を包んでいた。また、畳は時にドラえもん、時にゴルゴ13、時には殿様などのコスプレをしていた。

初期から「ロックンローラーに対抗して歩行者天国マイムマイムを踊る」「地球儀をつけて夜中に町を徘徊する」「自転車ハードルをステージに持ち込む」「マヨネーズボンカレーを顔に塗りたくる」といったゲリラ的なパフォーマンスやコントを行っており、これが後に電気グルーヴの瀧のパートにつながっていった。また静岡時代のメンバー構成は非常に流動的で、多い時には10人以上に達したが、のちに卓球、畳三郎、おばば(EX分度器)、若王子耳夫、グリソン・キム、越一人の6人が主要メンバーとして固定された。

1986年、静岡モッキンバードで有頂天の3度目の前座をした時に、ナゴムレコードを主宰するケラ(現・ケラリーノ・サンドロヴィッチ)から「レコード出さない? ナゴムから出さないでどこで出す!?」と言われた。その後、卓球の勉強部屋で1985年夏に自宅録音されたデモテープが、そのままナゴムから1stソノシート『9TUNES (FOR MIRAI)』として発売されることをきっかけに、ナゴムに就職する気持ちで上京する。ちなみに上京直後に卓球の音源をミックスしたのは当時CSV渋谷の店員だったもすけさんの山口優(現在はマニュアル・オブ・エラーズ・アーティスツ代表/作曲家)と東京タワーズの岸野雄一(ナゴムレコードの命名者)だった[11]

同年6月6日と8月29日に行われたナゴム総決起集会では筋肉少女帯ばちかぶり、死ね死ね団らと共に出演。その特異なパフォーマンスが注目を集め、同年11月6日にはナゴムギャルのまゆたん(ガールズバンドマサ子さん」を後に結成)を中心に新宿ロフト前でファンクラブ「人生教」[12]が発足する。その後、インディーズ・ブームに上手く乗っかり、レコードは作品を出す度にインディーズ・ベスト10にランク・インされる程の人気者になると同時に、ナゴム人気にも貢献する[13]

インディーズバンドとしては各種の大学の学園祭に呼ばれ公演を行うなど、評判は決して低くなかったが、レコード会社からの声は一向にかからなかった。その後、バンドブームによってよりオーソドックスなバンド形態になるが、便乗しきれず[14]、エレクトロニカへの趣向を隠さなかった[15]卓球の葛藤からなかなか芽が出ない、良い結果が出せない、バンドとしての中身の無さに困窮した状況が続いていた。そして1989年4月26日、おばば(EX分度器)脱退を記念した「おばば崩御 さよならおばば(EX分度器)ツアー」において、梅田にあったバーボンハウスでのライヴ(卓球の好きな大阪に拘った)を最後に解散。最後に卓球は「今は“電気”というバンドもやってますので、そちらもよろしく!」といった言葉を残し、後継バンドが存在することを示唆して終演した。
解散後

人生(ZIN-SAY!)の後継バンドであることが予告された電気グルーヴの初ライヴは、大阪の十三ファンダンゴで1989年8月20日に密かに行われた。電気グルーヴとして活動後も、しばしばセルフカヴァーというかたちで披露されたり、わざわざ当時の音源を模してサンプリングされている[16]

2008年DJ OZMAのラストアルバムにおいて代表曲「オールナイトロング」をカヴァーしたいというオファーを受けていたが、元々インディーズ時代の楽曲であるため著作権管理をしていないことが発覚。加えて童謡「クラリネットをこわしちゃった」から一部の歌詞とメロディを引用しているため、改めて日本語訳詞の作詞者・石井好子に許諾を打診(メロディは本来フランスの童謡のもので作者不詳であるとされる)するものの作詞者の判断により却下された。このように、オリジナルバージョン発表から20余年を経て発禁となったことを翌年掲載の電気グルーヴの連載「メロン牧場」で吐露している。

2013年12月8日ケラリーノ・サンドロヴィッチ生誕50周年記念・ナゴムレコード30周年ライブ「ケラリーノ・サンドロヴィッチ・ミューヂック・アワー」に石野卓球、ピエール瀧、砂原良徳牛尾憲輔が「電気グルーヴ plays 人生(ZIN-SAY!)」として出演、約24年ぶりに人生の楽曲を演奏した。

2019年3月12日、ピエール瀧が麻薬及び向精神薬取締法違反容疑で逮捕されたことを受け、卓球は腕に「電」というタトゥーを彫り、3月24日に「Zin-sayは電気グルーヴ、電気グルーヴは人生」という短文をTwitterに投稿[17]。「人生」というバンド名の伏線を(ある意味)30年かけて回収した形となった。

2019年6月18日東京地裁の判決公判でピエール瀧に懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決が言い渡された。この日、裁判官は判決を言い渡した後、瀧の自宅の一室に張られている人生の1stソノシート『9TUNES FOR MIRAI』(ナゴムレコード NG-030 1986年)の証拠写真を見せ、「なぜこの書が飾られているのか気になっていましたが、あなたのインディーズ時代からの活動で、たびたび作品に出てくる言葉だと分かりました。あなたが大切にしている『人生』という言葉について、3つ問いたいと思います。『人生』をこれからどうしたいのか。『人生』の意味とは何なのか。『人生』という言葉を贈ってくれた人の気持ちに応えているのかということです。この先、迷ったり悩んだりした時は自分の胸に手を当てて『人生』という言葉の意味を考えてください」と問いかけた上で「この文字を書いた人は、ダークサイドではなくて、仲間としての純粋な思いを語り合ったのではないか」と瀧に人生と書いてくれた人=石野卓球と見立て、コンビ愛の重要性を説諭し、「この先、芸能界に復帰できるのか、復帰に何年かかるのかは分かりませんが、薬物の力を借りなくても、これまでよりも活躍していると社会の人たちが思ってくれる日が来ることを願っています」と復帰を後押しした[18][19][20]。判決後、石野卓球はTwitterで「人生ってバンド名考えたの俺だかんな。よって、偉いのは俺、裁判官、瀧元死刑囚の順な」と言及した[21]
メンバー
固定メンバー

卓球(
石野卓球ボーカルプログラミングキーボードピエロ、鬼太郎書記長アメリカ人喧嘩握り、国際工業大学非常勤講師、石野"卓球"ペルニーニャ6世1967年12月26日、静岡市生まれ。性格はお調子者で頑固者。優しくなったり意地悪になったり忙しい。泣き虫だという意見もある。外出はあまり得意ではない。暇な時はだいたい家に閉じこもっている。好きな食べ物は[22]。人生解散翌日の1989年4月27日に電気グルーヴを結成。人生・電気ともにほぼ全ての曲で作詞・作曲を担当している。

畳三郎(ピエール瀧)ボーカルドラえもんゴルゴ13殿会計コミックパブチャップリン」勤務、瀧北京(パピヨンと読む)、瀧とかいう人、顔一時期人生を「カッコつけるから」とクビにされ、女装をした「瀧レモン」や「おっかけ」として参加している[23]。持ち歌に「俺が畳だ!殿様だ!」がある。電気グルーヴでは作詞、映像、瀧を担当。

おばば(EX分度器)ボーカル、ギターベース番長F1レーサー、奇行&、御婆"分度器"オバケのQ太郎のような白塗りメイクが特徴。1985年10月23日、静岡モッキンバードでのライヴより正式加入[8]。以前は「分度器」と呼ばれていた。持ち歌に「ルンバdeオババ」「ラップdeオババ」「オ・バンバ」「吹けよオババ呼べよオババ」などがある。好きなアーティストはクリストファー・クロス。音楽活動引退後は郷里の静岡県ミシンセールスマンとなる[24]

若王子耳夫(わかぷりんすみみお)ボーカル、ベース、ギター卓球の高校の同級生、中学生見習いデストロン日本支部長、自転車の後輪をまわす係、“嫌なヤツ”担当奇声を発しまくる気狂いじみたボーカル&コーラスが特徴。持ち歌に「耳夫サンバ」「耳夫Jazz」がある。1985年7月23日、静岡サーカスタウンでのライヴから加入するも「ギャグレベルが低い」という理由から一回のライヴでクビになる。翌1986年10月10日、静岡モッキンバードでのライヴから正式に再加入[8]。その後、一浪して東京の大学に進学し、1987年春から東京でも活動する[25]。人生解散後、そのまま電気グルーヴにも加入したが、インディーズ1stアルバム『662 BPM BY DG』の発表前後の1990年に脱退した。その後、ナゴム時代の同僚バンドである死ね死ね団のベーシストを経て、2003年からCUBISMO GRAFICO FIVEに330 mimio名義でギタリストとして加入するが2009年に脱退する。かつて瀧とは〈悲しい〉という別ユニットも組んでいた。

グリソン・キムボーカル、キーボード、ナレーション、プログラミング爆弾班長高句麗紅一点、晴海物流サービス、バンバラバンバンバンKIM、グリソン・アンダーソン・キム2世人生唯一の女性メンバー。1985年11月28日、静岡サーカスタウンでのライヴから正式加入[8]。卓球がキーボードを入れたいと思い、知人を介して知り合った。その後、レコード屋店員という職を捨て人生と共に上京する。ちなみに人生以前はクセナキスというサイケデリック系のハードコアガールズバンドをやっていたという[25]。人生解散後は主婦として活躍中[24]

越一人(えつひとり)ドラムス固い物を噛んだりする人、新宿“モンキーちゃん”契約社員、チュルルチュッチュッチュルチュルイエー菊池静岡時代からのメンバー。卓球とは小学校からの同級生。二浪して明大生になったので上京し、王選手と入れ替わる形で人生に再加入した。人生解散後は会社員となる[24]

王選手(旧芸名:井ノ頭健康)ボーカル、ダイビング、奇行消火器、人さらい、健康地蔵、特効隊長魏志倭人伝、元劇団健康身体をクネクネしながら客席で暴れて全力で人にぶつかってくる人。当時のメンバーとファンからは「あっちゃん」と呼ばれていた。人生の中では飛び道具的な存在でダイビングなど強烈なパフォーマンスを担当していた[26]。1986年8月29日の第二回ナゴム総決起集会で卓球にスカウトされ[26]、同年10月19日のCSV渋谷でのライヴから正式に加入[8]


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