人生_(バンド)
[Wikipedia|▼Menu]

人生
ZIN-SAY!
別名ZIN-SAY!
出身地
日本静岡県
ジャンルテクノポップ ニュー・ウェイヴ
活動期間1985年 - 1989年
レーベルナゴムレコード、キャプテンレコード
共同作業者ケラリーノ・サンドロヴィッチ

旧メンバー卓球
畳三郎
おばば(EX分度器)
若王子耳夫
グリソン・キム
王選手
越一人

人生(じんせい、ZIN-SAY!)は、1980年代後半にインディーズで活躍した電気グルーヴの前身にあたる日本バンド[1][2][3]ナゴムレコード所属[4]1985年3月結成。1989年4月解散。
歴史

1985年、当時高校2年生だった石野卓球が地元静岡で結成。同年3月25日に静岡サーカスタウンでデビューライヴが行われた。この時は卓球ひとりでカラオケライブをしていた[5]。デビュー当初は「都節で童謡+打ち込み+エコーエフェクト」といった様式で、つたないながらも後年の電気グルーヴのスタイル[6]をやや想起させる曲調であった。後に卓球の友人関係からメンバーが増え、同年6月28日に夜中の静岡駅で行った3回目のライヴ[7]からピエール瀧(当時の芸名は畳三郎)もメンバーとして正式に参加する[8][9]

メンバーは顔にメイクをしており、卓球は白塗りに片目が赤、片目が青の独特なメイク[10]で、時に怪しいピエロ風、時にカッターシャツネクタイ、時に大ファンである鬼太郎ファッションに身を包んでいた。また、畳は時にドラえもん、時にゴルゴ13、時には殿様などのコスプレをしていた。

初期から「ロックンローラーに対抗して歩行者天国マイムマイムを踊る」「地球儀をつけて夜中に町を徘徊する」「自転車ハードルをステージに持ち込む」「マヨネーズボンカレーを顔に塗りたくる」といったゲリラ的なパフォーマンスやコントを行っており、これが後に電気グルーヴの瀧のパートにつながっていった。また静岡時代のメンバー構成は非常に流動的で、多い時には10人以上に達したが、のちに卓球、畳三郎、おばば(EX分度器)、若王子耳夫、グリソン・キム、越一人の6人が主要メンバーとして固定された。

1986年、静岡モッキンバードで有頂天の3度目の前座をした時に、ナゴムレコードを主宰するケラ(現・ケラリーノ・サンドロヴィッチ)から「レコード出さない? ナゴムから出さないでどこで出す!?」と言われた。その後、卓球の勉強部屋で1985年夏に自宅録音されたデモテープが、そのままナゴムから1stソノシート『9TUNES (FOR MIRAI)』として発売されることをきっかけに、ナゴムに就職する気持ちで上京する。ちなみに上京直後に卓球の音源をミックスしたのは当時CSV渋谷の店員だったもすけさんの山口優(現在はマニュアル・オブ・エラーズ・アーティスツ代表/作曲家)と東京タワーズの岸野雄一(ナゴムレコードの命名者)だった[11]

同年6月6日と8月29日に行われたナゴム総決起集会では筋肉少女帯ばちかぶり、死ね死ね団らと共に出演。その特異なパフォーマンスが注目を集め、同年11月6日にはナゴムギャルのまゆたん(ガールズバンドマサ子さん」を後に結成)を中心に新宿ロフト前でファンクラブ「人生教」[12]が発足する。その後、インディーズ・ブームに上手く乗っかり、レコードは作品を出す度にインディーズ・ベスト10にランク・インされる程の人気者になると同時に、ナゴム人気にも貢献する[13]

インディーズバンドとしては各種の大学の学園祭に呼ばれ公演を行うなど、評判は決して低くなかったが、レコード会社からの声は一向にかからなかった。その後、バンドブームによってよりオーソドックスなバンド形態になるが、便乗しきれず[14]、エレクトロニカへの趣向を隠さなかった[15]卓球の葛藤からなかなか芽が出ない、良い結果が出せない、バンドとしての中身の無さに困窮した状況が続いていた。そして1989年4月26日、おばば(EX分度器)脱退を記念した「おばば崩御 さよならおばば(EX分度器)ツアー」において、梅田にあったバーボンハウスでのライヴ(卓球の好きな大阪に拘った)を最後に解散。最後に卓球は「今は“電気”というバンドもやってますので、そちらもよろしく!」といった言葉を残し、後継バンドが存在することを示唆して終演した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:68 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef