人生幸朗・生恵幸子
[Wikipedia|▼Menu]

人生幸朗・生恵幸子
メンバー人生幸朗
生恵 幸子
結成年
1954年
解散年1982年
事務所吉本興業
芸種漫才
テンプレートを表示

人生 幸朗・生恵 幸子(じんせい こうろう・いくえ さちこ)は、日本の夫婦漫才コンビ。昭和後期(戦後)に大阪を拠点に活動した。

夫の幸朗が歌謡曲や世相などにとんちんかんな難癖をつけ、「責任者出てこい![1]」の決めゼリフを吐く「ぼやき漫才」で、テレビラジオを通じ、関西のみならず全国的に認知された。
コンビ略歴

それぞれのメンバーが別のコンビで活動したのち、1954年に結成。1963年以降吉本興業に所属し[2]、同社の劇場を拠点とした。寄席出演のかたわら、草創期の在阪民放テレビ局の演芸番組に頻繁に出演するようになる。当初は都家文雄直伝の社会・世相・時事を扱ったぼやきに徹したが、2人は漫才作家の用意した台本を覚えるのが早くても15日はかかったため、ネタが古臭くなるのを避けて、流行歌にぼやくスタイルに変わったという。

幸子が病気療養中の1973年ごろ、幸朗がKTVの深夜番組『ナイトパンチ』にピンでレギュラー出演。これを機に若者層に認知され、幸子復帰後のコンビが全世代的に浸透する。1978年、「関西大衆芸術家友好訪中団」の一員として中国で口演。1982年の幸朗の急死直前まで活動した。1980年には澤田隆治の企画により[3]東京の国立劇場演芸場に出演し、関東でも評価された。

各地の刑務所をノーギャラで慰問することをライフワークとした[1]。慰問活動の期間は1953年頃から27年間におよび、法務大臣賞を受賞するに至った[2]
受賞歴

1974年 上方漫才大賞奨励賞[1]

1977年 上方お笑い大賞[1]

1978年 大阪市民表彰

弟子

園みち子


メンバー

人生 幸朗
本名比田 孝三郎
生年月日
1907年11月2日
没年月日 (1982-03-04) 1982年3月4日(74歳没)
国籍 日本
出身地大阪府中河内郡長瀬村
言語日本語
師匠荒川芳丸
都家文雄
コンビ名都家文蔵・高田田鶴子
人生航路・庭野千草
人生幸朗・生恵幸子
相方生恵幸子
芸風漫才
事務所吉本興業
活動時期1940年 - 1982年
親族生恵幸子(妻)
弟子柳井幸多朗
テンプレートを表示


人生 幸朗(じんせい こうろう、1907年11月2日[1] - 1982年3月4日[1]
夫。ボケ担当。本名:比田 孝三郎(ひだ こうざぶろう)[1][2]。20歳で旅芝居一座に加わる。24歳の時に漫才師の荒川芳丸に入門し荒川芳蔵を名乗る。その後都家文雄門下に移り「都家文蔵」に改名、師匠のボヤキ芸を継承する。1940年に吉本興業に最初の入社。第二次世界大戦中は高田田鶴子[4]と組み、満州などを巡業(幸朗本人の語るところによると、婚姻状態にあった[2])。その後出征。復員したところ、相方の田鶴子が師匠の文雄と共同生活を送っていたため、怒りにまかせて一門から抜け、「大海に向けて船出しよう」という願いから人生航路に改名[2]1947年千土地興行に移籍。この頃、相方を幾度も変えた。1954年より相方を庭野千草(のちの生恵幸子)に替え、同年結婚[1]。翌1955年に「人生幸朗」に改名。またこの頃より、関西芸能親和会長を歴任[1]弱視のため、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡が手放せず、トレードマークとなった。飛田遊廓に行った際、店の女性を幸子と間違えて「こんなところで何してんねん」と殴りかかろうとした[2]り、眼鏡を忘れたまま仲間の芸人と寿司を取った時、大皿に模様として描かれた伊勢海老を本物と勘違いし「取れへん!」と叫びながら箸でつまもうとしたりしたエピソードが残っている。楽屋に大量のコロッケを差し入れる、数十万円単位の借金の無心を断らない[2]など面倒見が良かったため、後輩芸人や裏方から慕われた。「人生さん」「人生の師匠」と、珍しく亭号で呼ばれた。その反面、中田カウス・ボタン月亭八方[2]のいたずらの格好の標的になった。飛行機で就寝中に備品の毛布を鞄の中に放り込まれ、深夜に航空会社を騙って電話を掛けられた[2]り、楽屋で昼寝中に、眼鏡のレンズを赤いマジックインキで塗り潰され、耳元で「火事や!」と叫ばれて、パニックに陥る姿を面白がられた[2]りしていた。劇場のトリ出番を任され、芸界の用語として「幹部」と呼ばれていたことから、吉本興業の役員に支給される社章(本来は真鍮製)を純金で独自に作成し、着用していた[2]還暦を過ぎてなお、複数の愛人を抱えていた(幸子談[要出典])ほか、会社から低利で前借りしたギャラをそのまま銀行に持ち込んで定期預金し、利ザヤを稼ぐ吝嗇家の一面もあったという(桂米朝談[要出典])。1982年2月に枚岡神社の節分会にゲスト出演した際に風邪を引き、こじらせたことで急性肺炎にかかり、同年3月4日没する[5]享年74。法名は、人生院釋幸朗。追悼特番では、入院先の大阪赤十字病院の旧病棟(病舎)に芸人数名が見舞に訪れるシーンが放送された。なお、幸朗は浄土真宗門徒ではあるが、墓は高野山宝亀院五輪塔で建てられ、幸子と共に葬られている。

生恵 幸子
本名赤田 松子
生年月日1923年9月25日
没年月日 (2007-02-05) 2007年2月5日(83歳没)
国籍 日本
出身地大阪府大阪市
言語日本語
最終学歴尋常小学校
コンビ名北斗七星・庭野千草
人生航路・庭野千草
人生幸朗・生恵幸子
相方北斗七星、人生幸朗
芸風漫才
活動時期1935年 - 2002年
親族北斗七星(前夫)、人生幸朗(夫)
テンプレートを表示


生恵 幸子(いくえ さちこ、1923年9月25日[6] - 2007年2月5日[6]
妻。ツッコミ担当。本名:赤田 松子(あかだ まつこ)。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:50 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef