人民党_(アメリカ)
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アメリカ合衆国政党人民党
People's Party
成立年月日1891年[1]
前身政党農民同盟[1]
グリーンバック党[2]
労働党
解散年月日1896年[2]
1908年以降?(再組織後)
解散理由W.J.ブライアン敗北による党の分裂[1]
民主党への吸収[2]
後継政党民主党[2]
進歩党[1]
本部所在地アメリカ合衆国
政治的思想・立場反独占[3]
ポピュリズム
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人民党(じんみんとう、: People's Party[1][3]: Populist Party[1][3])は、アメリカ合衆国ポピュリズム運動の中で1891年に設立され、比較的短命に終わった政党である。
概要

人民党の構成員・支持者はポピュリストと呼ばれた[3]。「ポピュリスト」や「ポピュリズム」という言葉は、確立された利益や主流政党に反対して、反エリート主義の主張で使われることが通常である。詳細は当該記事を参照のこと。

アメリカ合衆国南部(特にノースカロライナ州アラバマ州テキサス州)の貧しい白人綿花農家や、アメリカ合衆国中西部の平原にある州(特にカンザス州ネブラスカ州)の追いつめられていた小麦農家などを支持基盤とし、農本主義と、銀行、鉄道、エリートに対する敵意という急進的な運動形態を採った。労働組合と連衡する場合もあれば、1896年には民主党が人民党の大統領候補者ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを公認した。1892年から1896年が最も活動した期間であり、その後は急速に衰退していった。
歴史
結成

人民党は、南部やミシシッピ川から西部までで、低い農産物価格に反応した農民の騒動の中から生まれ出てきた[4]。1876年、テキサス州ランパサスで結成された農民同盟が農民の結集による経済活動を推進し、南部やグレートプレーンズ地域で幅広い支持を勝ち取った。農民同盟は最終的に、仲介業者、鉄道、商人に対抗する集合的な経済活動という幅広い目標を達成することはなかったが、運動に関わった多くの者は国政政策の変化を扇動した。1880年代末までには、農民同盟が政治綱領を作成し、国策における規制と改革を要求した。中でも農機具など他の商品に比較して農作物価格が下がったことへの対抗策として、金本位制に反対したことが挙げられる。

1888年12月、全国農業ウィールと南部農民同盟がミシシッピ州メリディアンで会した。この集会で、保留中だった2つの団体が統合することを決めた。この統合で、新しい組織名がアメリカ農民労働者連合となり、1889年には統合が批准されたが、テキサス州やアーカンソー州の「保守的な」同盟員と「政治的な」ウィール会員との間に紛争があり、これらの州ではそれぞれ1890年と1891年まで統合が遅れることになった。この統合で白人南部同盟とウィール会員を団結させることになったが、農業団体のアフリカ系アメリカ人会員を含めることは無かった[5]

1889年の統合に向けた動きの中で、南部農民同盟と全国農業ウィールの指導者達が、「ナイツ・オブ・レーバー」の指導者テレンス・V・パウダリーに接触した。「この農民運動指導者とパウダリーが接触したことで、1889年12月から1892年7月の間に開催された一連の改革会議への道が開け、全国政党として人民党の結成に繋がった。[6]1892年、人民党の選挙ポスター、ジェイムズ・ウィーバーを大統領に推している

運動の中から新しい政党を創ろうという動機は、二大政党である民主党と共和党の双方が、小農の必要とする事柄には敵対的な銀行家、土地所有者、エリートに支配されているという信念から生まれてきた。運動は1892年に最高潮に達し、人民党はフランシス・ウィラード(婦人キリスト教禁酒連合の指導者でパウダリーの友人)を議長とする大会をネブラスカ州オマハ市で開催し[7]、国政選挙の候補者を指名した。

オマハ綱領と呼ばれた党綱領は、国定銀行の廃止、累進的な所得税の導入、アメリカ合衆国上院議員の直接選挙、公共事業の改革、1日8時間労働、および鉄道、電信、電話の連邦政府による規制を要求していた。1892年アメリカ合衆国大統領選挙の一般投票で、ジェイムズ・ウィーバーは1,027,329票を獲得した。ウィーバーはコロラド州、カンザス州、アイダホ州ネバダ州の4州で勝利し、オレゴン州ノースダコタ州からも選挙人票を得た。

党は南西部やグレートプレーンズ地域の農民に最も支持され、さらには南部でもかなりの支持を得られたが、南部は民主党がしっかりと根付いた独占地域であり、それとの苦しい戦いを強いられた。成功事例は南部以外の民主党との選挙協力で得られることが多かったが、南部ではアラバマ州、ノースカロライナ州、テネシー州、テキサス州で共和党と同盟を組んだ。例えば1894年の選挙で、人民党のマリオン・バトラーが指導した人民党と共和党の連衡によってノースカロライナ州の州と地方レベルの役人を独占し、さらに1896年には共和党候補者のダニエル・リンザー・バトラーを州知事に当選させることになった[8]

ポピュリストの動きとは全く別に、西部の鉱業州では、1893年恐慌を解決するために自由銀を要求したシルバーライトの動きがあった。

ポピュリストは禁酒党に追随して女性の支援を積極的に取り込んだ。ジョージア州のトマス・E・ワトソンなど南部のポピュリストは、経済的な利益を共有するという名目で、貧乏黒人と貧乏白人がその人種的な違いを棚上げにしておく必要性を訴えた。しかしこの修辞的な訴えにも拘わらず、人民党は人種差別問題を避けられなかった。ノースカロライナ州選出のアメリカ合衆国上院議員マリオン・バトラーのような人民党の著名指導者は、少なくとも白人至上主義サイドへの支持を表明しており、党員の中にもこの見解を支持する者がいたと考えられる[9]。1900年以降、ワトソン自身は公然と白人至上主義を訴え、1904年と1908年の大統領選挙に出馬して、それぞれ117,000票と29,000票を獲得した。
1896年アメリカ合衆国大統領選挙36歳のウィリアム・ジェニングス・ブライアン。1896年の民主党および人民党の共同候補になった

1896年までに、民主党が国政レベルで人民党の政策の多くを採用するようになり、人民党は国政の場から衰退を始めた。1896年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党がウィリアム・ジェニングス・ブライアンを大統領候補に指名し、ブライアンは経済不況と権力の不均衡配分の解決策として自由銀問題に議論を集中させた。


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