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ソビエト連邦人民代議員大会
Съезд народных депутатов Союза Советских Социалистических Республик(СССР)
種類
種類代表者会議
沿革
設立1989年5月25日
廃止1991年9月5日
前身ソビエト連邦最高会議
後継ソビエト連邦最高会議
ソビエト連邦国家評議会
構成
定数2250議席
院内勢力.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{} ソビエト連邦共産党 (1958) 無所属 (292)
任期5年
選挙
選挙制度単純小選挙区制
前回選挙1989年3月26日
議事堂
ソビエト連邦、モスクワ市
クレムリン大会宮殿
ソビエト連邦人民代議員大会(ソビエトれんぽうじんみんだいぎいんたいかい、ロシア語: Съезд народных депутатов СССР)は、ソビエト連邦末期のゴルバチョフによって、ソ連最高会議に替わって、設立された最高国家権力機関。
ソ連崩壊後のロシア連邦でも人民代議員大会の制度は引き継がれたが、1993年のモスクワ騒乱事件後の新憲法によって廃止・解消され、現行の二院制のロシア連邦議会が創設された。 人民代議員大会設立の直接の契機となったのが、1988年6月に47年ぶりに開かれた第19回ソ連共産党協議会(党大会の会期の間に開かれる)であった。ペレストロイカ(改革)における政治改革の進行過程で、19回党協議会では、共産党と国家の分離、党の民主化、議会制度改革、法治主義の徹底という重要な方針が明確に打ち出された。この中で、新たな国家体制をめぐり、ソビエト国家の民主化か、アレクサンドル・ヤコブレフが主導した大統領制導入かで議論が闘われた。 ゴルバチョフは従前取られていた事実上、共産党による単独候補者が代議員として選出されるという、単なる追認的な選挙を改め、競合的な選挙による民意を真に代表する選挙と議会によって、ソビエト制度を刷新し、ペレストロイカを推進しようと目論んだ。一方で連邦構成体の各レベル共産党幹部(第一書記など)は、地方レベルのソビエト議長を兼務する方向性が打ち出され、民主化は、モスクワの中央部から地方に波及する効果をもたらすことになる。 1988年12月の最高会議で憲法が改正され、正式に発足したソ連人民代議員大会は、代議員の任期を1期5年(最高2期10年を上限とする)、定数を2,250名と定めた。2,250名の代議員は、以下の3方法で選出された。 とされた。上記最後の社会団体には、ソ連共産党、コムソモール、労組、協同組合から作家同盟など創造的組合やソ連科学アカデミーなどの諸団体、さらに認可された自主的団体などが含まれ、それぞれ割り当てられた定数の代議員を選出することが決められた。そして、この2,250名の人民代議員大会の常設機関として、最高会議(定数542名)が選出されるという仕組みが形成された。ゴルバチョフは、新設された最高会議議長に選出され、議長職は、ソ連大統領職が設置されるまで、国家元首と規定された。人民代議員大会は、最高会議の決定により年1回召集される。人民代議員大会閉会中は、最高会議が、常設議会として機能し、国政の重要事項について審議することになっていた。 1989年3月26日、第1回人民代議員大会選挙が実施された。この選挙はソ連史上初めての自由選挙として特筆される。この選挙で共産党は1,957名を当選させるも、大都市部で共産党保守派は敗北を喫した。
概説
750名の代議員は、1936年から1989年まで従来、ソ連で実施されてきた地域選挙区(小選挙区)から選出される。
750名の代議員は、民族地域選挙区から選出される。
残り750名の代議員は、全連邦的規模の社会団体(公共団体)から選出される。
歴史