人文地理学の歴史
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本稿では、人文地理学の歴史(じんぶんちりがくのれきし)について論述する。
概要

人文地理学は、人文的事象を扱う地理学の下位分野であり、自然的事象を扱う自然地理学と並立させられる。しかし、この分野が成立する以前より「人文地理学」に分類されるような営為は蓄積され続けていた。このことについて、「人間が現れて以来、人文地理学は存在し続けている」と論じる研究者もいるが、すくなくとも西洋世界において、学問としての地理学が提唱されたのは古代ギリシャ期のことであり、その後も地理学的営為は連綿と続けられた。

とはいえ一般に、分野としての人文地理学は、1882年ドイツの地理学者であるフリードリヒ・ラッツェルが提唱したものであると考えられている。ラッツェルは生物学的なアナロジーを地理学の人文的事象に代入し、歴史に対する自然の影響を因果論的に解明しようとした。このことから彼は、特にその後のアメリカにおいて活発化する環境決定論の提唱者としても知られている。また、日本においても、学術分野としての地理学が形成される過程についてはラッツェルが強い影響力をもたらした。しかし、ラッツェルが分野としての人文地理学を提唱したのちも、この議論がすぐさま受け入れられたわけではなく、同時期ドイツにおいてはフェルディナント・フォン・リヒトホーフェンが提唱した自然的事象・人文的事象をいずれも地誌的な観点から論じるコロロギーが強い影響力を有した。また、リヒトホーフェンに師事したアルフレート・ヘットナーはラッツェル的な一般法則を定立しようとする地理学に疑問を呈し、地誌の個別記述からなる地理学の重要性を主張した。一方で、オットー・シュリューターは彼のコロロギー的地理学を批判し、「景観像を構築するもの」としての人文的事象についての研究をもとに人文地理学を構築しようとした。

こうした近代ドイツ地理学の動向は他国にも大きな影響を与えた。アメリカにおいてはヘットナーの思想をリチャード・ハーツホーンが、シュリューターにはじまる景観論的思想をカール・サウアーが受け入れた。とはいえサウアーらバークレー学派(英語版)の地理学は傍流にとどまることとなり、近代アメリカの地理学においては、ハーツホーンの主導した、定性的な地誌記述を中心とする研究が主流を占めることとなった。こうした実情は1950年代、フレッド・シェーファー(英語版)により厳しく批判されるところとなり、各地で「計量革命」として知られる地理的事象の数理的な定式化が進められた。一方で、人文的事象を定量的なものとして還元するアプローチには批判も集まり、1960年代以降には行動地理学人文主義地理学といった、人間の主観的世界を取り扱おうとする分野が注目を集めた。さらに、1960年代から1970年代にかけて隆盛を誇った学生運動は人文地理学にも強い影響を与え、ラディカル地理学とよばれる研究アプローチが生まれた。これはのちに、マルクス主義地理学フェミニスト地理学といった分野に継承された。

さらに、1980年代後半以降においては、イギリスを中心としてカルチュラル・スタディーズの影響を強く受けた、文化論的転回(英語版)とよばれる新たな研究の潮流が生まれた。この研究アプローチは景観を含む表象が形成されるプロセスそのものを地理学の研究対象としたが、これはマルクス主義地理学などもふくむ、従来の法則定立的な地理学そのものに関する批判として機能した。ロサンゼルス学派(英語版)の研究者らの主導により、1990年代以降の人文地理学においてはポストモダニズム的アプローチが採用されるようになる。こうした研究動向は、アクターネットワーク理論の導入などを通して、2000年代以降は空間を様々な行為主体が形成するネットワークとして理解する関係論的アプローチが影響力をもちはじめることとなった。
人文地理学成立以前の地理学「地理学の歴史」も参照

一般に、「人文地理学」の概念をはじめて提唱したのは、19世紀ドイツの地理学者であるフリードリヒ・ラッツェルだと考えられている[1][2]。しかし、人文地理学的な営為はそれよりはるか以前より蓄積され続けていた[3]Warf (2010)はこのことについて「人間が現れて以来、人文地理学は存在し続けている」と述べる。一方で、Gibson (2020)が論じるように、人文地理学を自然地理学と並立する、地理学の下位分野として位置付ける考えは地理学の歴史において比較的最近あらわれたものであり、ラッツェル以降も必ずしも定着したものではない。本節では、ラッツェルまでの、おもに西洋世界における地理学の歴史について概説する。
古代から近世の地理学プトレマイオス図15世紀作成。プトレマイオス本人が作り上げた地図は現存しないものの、1460年頃から彼が編纂した経緯度表による図の復元が行われ、このような世界地図が作り上げられた[4]

「地理学」(: Гεωγραφ?α)という言葉をはじめに用いたのは紀元前3世紀の学者であるエラトステネスであると考えられている[1]。ギリシャおよびローマではその後の西洋における地理学を基礎づける業績が数多く生まれ、地球の大きさを測り、地図をともなう既知世界: Ο?κουμ?νη)の記述を行ったエラトステネス、その3世紀後に『地理誌』を執筆したストラボンなどがあらわれた。アレクサンドリア天文学者地理学者である、クラウディオス・プトレマイオスが、150年ごろ上梓した全8巻の『地理学』は、古代西洋世界の地理的知識の集成として知られる。プトレマイオスはまた、地球全体についての知識を問う地理学と、特定地域の知識を問う地誌を区別した[5]

中世ヨーロッパの地理学は神学的イデオロギーの強い影響をうけ、ギリシャの実証主義的伝統は後退した。一方で、7世紀から12世紀までのアラブ帝国において、地理学は盛んに研究された。なかでも地図作成技術は進んでおり、シチリア王国ルッジェーロ2世のように、キリスト教国の王にもイドリースィーのようなアラブ人地図作成者を雇用する者がいた。エジプトイブン・ハルドゥーンは『歴史序説』を書いたが、これは人間と環境の相互作用について明言した歴史書としてははじめてのものであると考えられる[6]

ルネサンス期には西洋においてもプトレマイオスの再評価、イスラム知識の流入、羅針盤使用による沿岸航海の発達がなしとげられたほか[4]バルトロメウ・ディアスの喜望峰周航、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航海、クリストファー・コロンブスのアメリカ大陸航海などを通して地理的知識が飛躍的に増加した[6]16世紀人文主義者であるペトルス・アピアヌスは、プトレマイオスの地理学と地誌の区別を継承し、『コスモグラフィア(: Cosmographia)』を執筆した。同著はヨーロッパにおける当時の知識の集成として知られ[5]ゼバスティアン・ミュンスターの『コスモグラフィア(英語版)』とともに、地理学の主要書籍としてヨーロッパの諸言語に翻訳された[7]

ニコラウス・コペルニクスによる宇宙観の変革と、マルティン・ルタージャン・カルヴァンらによる宗教改革は、地理学を含む人間の知的認識に大きな変化をもたらした(科学革命[8]


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