人情紙風船
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この項目では、1937年公開の日本映画について説明しています。1982年放送の同名のテレビドラマについては「人情紙風船 (テレビドラマ)」をご覧ください。

人情紙風船

監督山中貞雄
脚本三村伸太郎
原作河竹黙阿弥
製作総指揮武山政信
出演者河原崎長十郎
中村翫右衛門
霧立のぼる
音楽太田忠
撮影三村明
編集岩下広一
製作会社P.C.L.映画製作所
配給東宝映画
公開 1937年8月25日
上映時間86分
製作国 日本
言語日本語
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『人情紙風船』(にんじょうかみふうせん)は、1937年(昭和12年)に公開された山中貞雄監督の日本映画日中戦争で戦病死した山中の遺作である。目次

1 略歴・概要

2 作品のパブリックドメイン化

3 あらすじ

4 スタッフ

5 キャスト

6 テレビドラマ

7 脚注

8 外部リンク

略歴・概要

フィルムがまとまった形で現存する山中貞雄監督作品の3作のうちの一つ。河竹黙阿弥作の歌舞伎『梅雨小袖昔八丈』(「つゆこそでむかしはちじょう」通称:『髪結新三』)を原作[1]とし、山中の盟友である三村伸太郎がシナリオを執筆した。『街の入墨者』『河内山宗俊』に次いで前進座と三度目のコンビを組み、一座の花形である河原崎長十郎中村翫右衛門が主演し、ほか多くの座員が出演した。また、当時前進座に所属していた加東大介が市川莚司名義で、河野秋武が山崎進蔵名義で出演している。

貧乏長屋に暮らす人々の日常と悲哀を描き、山中や稲垣浩らが参加した監督・脚本家集団「鳴滝組」が作っていった「髷をつけた現代劇」(「時代劇の小市民映画」とも)という、時代劇映画の一つのジャンルの中で最も傑作と言われる作品である。1937年度のキネマ旬報ベストテンで第7位にランクインした[2]

1937年(昭和12年)8月25日、封切り当日に山中に赤紙が届き、平安神宮で壮行会が行われ、神戸港から中国に出征した。山中は戦中、手記に「紙風船が遺作とはチト、サビシイ」と書き遺している。山中は1938年(昭和13年)9月17日河南省で戦病死した。

ランキング

1979年:「日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)」(キネ旬発表)第4位

1989年:「日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第13位

1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第10位

1995年:「オールタイムベストテン・日本映画編」(キネ旬発表)第4位

1999年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第18位

2009年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊90周年記念)」(キネ旬発表)第23位

作品のパブリックドメイン化

公開年、監督没年のいずれを基点としても50年以上が経過しており、日本の著作権法(2013年現在)上ではパブリックドメイン化しており、日本国内では自由に複製、上映、改変、翻案などが可能となっている。
あらすじ

この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。あらすじの書き方を参考にして、物語全体の流れが理解できるように(ネタバレも含めて)、著作権侵害しないようご自身の言葉で加筆を行なってください。(2014年6月)(使い方
霧立のぼる(左)と中村翫右衛門(右)

江戸貧乏長屋浪人の首吊りが発生、役人が調べに来る。長屋の住人である髪結いの新三は、長屋の連中で浪人の為にお通夜をしてやろうと言い、大家を説き伏せてをせしめる。お通夜が行われるが、長屋の連中はがただで飲めると喜び陽気な馬鹿騒ぎを行う。

同じ長屋にいる浪人の海野又十郎は、父の知人の毛利三左衛門に仕官の口を頼みに行くが、邪険に扱われ相手にしてもらえない。その毛利三左衛門は質屋である白子屋の店主の愛娘お駒をさる高家の武士の嫁にしようと画策している。しかし当のお駒は番頭の忠七とできている。

新三は自分で賭場を開いていたが、ヤクザの大親分弥太五郎源七の怒りを買い散々な目にあってしまう。そのせいで金に困り、髪結いの道具を白子屋に持ち込むが相手にしてもらえない。

海野又十郎は、懲りずに何度も毛利三左衛門に会いに行くが、ある日どしゃぶりの雨の夜に「もう来るな」と言われてしまう。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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