人形町末廣
[Wikipedia|▼Menu]

人形町末廣(にんぎょうちょうすえひろ)は、東京都中央区日本橋人形町三丁目にかつて存在した寄席である。常用漢字で『人形町末広』と表記する場合もある。東京都内の落語定席の一つで、落語を中心に漫才色物等、寄席演芸興行を行っていた。『人形町末廣亭』と表記される事があるが、開業から戦後まで『末廣亭』、以降は『人形町末廣』と称していた。詳細は「末廣亭」・「末廣」の呼称を参照のこと。現存する寄席『新宿末廣亭』とは無関係である。
沿革

近隣に元吉原があった時代からの地元の総鎮守である末廣神社[注釈 1]が控えている土地に1867年慶応3年)創業。現在の人形町通りに面しており歌舞伎与話情浮名横櫛』の舞台『源氏店』のモデルの『玄冶店(げんやだな)』の路地の向かい、入り口角に立地していた[1][2][3][注釈 2]

1923年大正12年)、関東大震災により被災する。建物の焼失は免れたが著しく損傷したため撤去し、同地に同じ仕様で再建した[4]1970年(昭和45年)1月、日本芸術協会(現:落語芸術協会)の定席興行である正月二之席(11日から20日まで)をもって閉場したが、同年4月に 2代目桂文朝真打昇進披露興行の為に借り上げられた。
人形町末廣とその周辺

1657年(明暦3年)に吉原遊廓が移転し、天保の改革で芝居小屋が移転して以降、商業地として発展した人形町に1872年(明治5年)水天宮が移転して来た時にはかつての繁華街・歓楽街の面影は薄く、高額の遊興費を必要とする芳町花街大衆を牽引して来る力とはなり得なかった。新しく出来た門前町に徐々に繁華街としての体裁が整えられて町全体の客足は順調に伸びていったが、東京における明治から大正期の寄席興行は、市内に多数の寄席が存在していたために多くの場合は外来の客目当てと言うよりは住人のための娯楽だった。

当時の人形町近辺は大小の問屋商店が立ち並び、店主と家族、住み込みの従業員等で人口密集地帯であった。近隣を流れる日本橋川に架かる日本橋西南岸には関東大震災で壊滅するまでは魚河岸が控えており、さらに日本橋兜町には東京株式取引所が設置されて個人商店を含む大小の証券会社が開業した。増加した居住者に娯楽を提供するべく明治期には人形町に寄席が複数存在していた。『末廣亭』(のちの人形町末廣)、『大ろじ』[1][2][注釈 3]、『鈴本亭』[1][2][3][注釈 4]、『喜扇亭(浪曲席)』[1][2][3][5][注釈 5]である。

『大ろじ』[注釈 3]は1階が住居で2階が寄席になっており、晩年の三遊亭圓朝牡丹灯籠を連続口演するなど当時の東京で指折りの寄席であったが建物が老朽化したため1907年(明治40年)前後に閉場し、『大ろじ』[注釈 3]閉場後に同じ席亭[注釈 6]が『鈴本亭』[注釈 4]を開場して経営していた。
『鈴本亭』[注釈 4]は大森館という活動写真館の跡地に明治末期に開場した当時の東京で屈指の客の来る寄席で、客席は1階に加えて2階席もあり常時500?600人の客数が押し寄せて満員になっていた。隣町の日本橋久松町には明治座も開場しており、近隣は明治期に芸能が盛んになった土地であった。

関東大震災で『鈴本亭』[注釈 4]が閉場[1]、『喜扇亭』[注釈 5]は戦後は浪曲に加えて漫才等の色物席として存続するが1952年(昭和27年)頃に閉場し、『人形町末廣』1軒が孤塁を守った[6]
閉場

時代の変遷と共に映画ラジオテレビ等の新しい娯楽が出現する度に寄席という興行形態そのものが客を奪われ[7]1924年(大正13年)には東京市内に117軒を数えた寄席(落語定席以外も含む)[8]は激減し1965年(昭和40年)には5軒のみ[注釈 7]となった。

昭和期からの人形町周辺では多数の商店が徐々に会社組織になり、寄席の常客であった経営者や従業員が転居した郊外から通勤して来る様になった結果夜間人口が激減して、仕事が終わった夜に寄席に来るという生活の形態そのものが失われてしまった。

人形町末廣は昔ながらの夜席のみの興行で[9][注釈 8]、現存する東京都内の寄席が外来の客を誘致するべく昼席興行も実施しているのに比べ経営戦略上も出遅れた感がある。入場者数の減少で経営を圧迫され、1962年(昭和37年)5月に営団地下鉄日比谷線、同年9月に都営地下鉄1号線が開通するが集客に結びつかず、1969年(昭和44年)10月に前を走る都電が廃止され、さらなる客離れを招いた[10]

開業以来借地に立地していた。土地の買い取りを打診されるが、経営不振と高度経済成長で高騰した土地価格の前に果たせず、元々の地主から土地を買収した不動産会社に立ち退きを迫られ、開業103年目の1970年(昭和45年)に存続を断念して閉場した[11][12]。江戸時代以来の客席がすべて畳敷きの落語定席[注釈 9]としては最後の存在だった[注釈 10]

オフィス街になった人形町界隈が、昔の東京の痕跡が残る観光地として人気を集め始めたのは、人形町末廣閉場から10数年を経た1980年代半ば頃からである。
最終興行

日本芸術協会[注釈 11]の公演で、会長の6代目春風亭柳橋が落語一席を語ってから踊り「深川」を披露した。主任[注釈 12]5代目古今亭今輔で、演目は「留守居番」[13]。石原幸吉席亭[3][14][注釈 13]の意向で特別興行ではなく通常の興行で、席亭と出演者一同とが高座へ上がっての挨拶と今輔の口上の他は特にセレモニーらしきものは無かった[4][15]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef