京都
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、地名および歴史的な都市としての京都について説明しています。

都道府県としての京都府については「京都府」をご覧ください。

市町村としての京都市については「京都市」をご覧ください。

都市圏については「京都都市圏」をご覧ください。

その他の用法については「京都 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "京都" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年3月)
新旧京都の象徴
平安京羅城門模型と京都タワー

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、: Kyoto[1][2][3])は、日本地名都市794年以降日本の首都であった平安京が位置し、都もしくは京などとも呼ばれていた。古くから日本の政治文化の中心地として栄え、金閣寺清水寺をはじめとする文化財が多く残る地域である。

現在京都といえば、広義では京都府を、狭義ではその府庁所在地たる自治体の京都市、もしくはその中心部の地域を指す。
名称
「京都」の語の由来

東アジアでは古来、歴史的に「天子様の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京(きょう)、京師(けいし)が多く使用されていた。西晋時代に世宗である「師」の文字を避けて京都(けいと)というようになり、以後は京、京師、京都などの呼び名が用いられた。

日本でも飛鳥京恭仁京などが「京都」とも呼ばれた。平安京を指して日本の文献で「京都」の語が固有名詞として使われる初出(学術的に存在が確認されている最古の文献)は、永延2年(988年)の『尾張国郡司百姓等解』であるが、これ以後あまり用いられることはなく、平安時代末期に固有名詞として定着し、鎌倉時代初頭にかけてその使用の頻度が増す[4]。なお平安京は造都当時は「北京」とも呼ばれた。(なおこう呼ぶ場合、奈良の平城京のことを対比的に「南京」と呼んでおり、以後長らく奈良の代名詞としては「南都」が多用された[5]。)

つまり、造都当時は平安京の普段の呼び方が定まっていなかったのである。平安京を「京都」と呼ぶことが定着したのは平安時代後期からで、「京」や「京師」という呼び名も併用されていた。その後、次第に「京の都」(きょうのみやこ)、「京」(きょう)、「京都」(きょうと)などが平安京を指すための固有名詞のようになり定着していった。

なお、「京」の異体字俗字[6])である「亰」の字は、日本でも「京」と同様に古くから用いられ、正倉院蔵の『雑集』には聖武天皇の筆による「平城亰」の用字が見える。大阪では、生國魂神社の北門近くに天保15年冬10月の建立の「右亰道」の石碑がある。京都での用例としては、京都大学東南アジア研究センター[注 1]の煉瓦造りの壁面に「亰都織物會社」の石板が嵌めこまれている。
「長安」「洛陽」「洛」という呼び方かつて京都に存在し、日本一の高さを誇っていた方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ[7]。方広寺大仏は洛陽大仏・洛東大仏とも称されていた。「洛中」も参照

平安京(京都)は、古く詩文において中国王朝の都に因み洛陽長安などとも呼ばれた。一説に、平安京を東西に分割し、西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と呼んだという[8]。これらの呼び名が定着した時期は明らかになっていない。また、命名の記録もなく、これら「長安」「洛陽」が正式名称であったとは考えられず、文学上の雅称であったとの指摘がある[9]。「長安城」という呼び方は平安中期で一旦姿を消し、再び現れるのは鎌倉末期以降、『拾芥抄』において洞院公賢が「東京号洛陽城、西京号長安城」と付記して以降のことである。ところが、右京すなわち「長安」側は湿地帯が多かったことなどから程なく廃れ、市街地は実質的に左京すなわち「洛陽」だけとなった。このため、「洛陽」とはすなわち京都を指す言葉になり、その一字を採って「洛」だけでも京都を意味することになったとされる。「本朝文粋」に収められた源順(911 - 983)が書いた漢詩に平安京を指して「洛城」と呼ぶ例が見られる。これをもってして「洛」の一字をもって京都を表す慣習は早くから成立していたと考えられる。一説に、平安初期の文学に現れる洛陽、長安はそれぞれ左京、右京を指しているとは考えられず、ともに都全体を指していると考えられるところから、長安とも洛陽とも呼んでいたものが、のちに「洛陽」のみが使われるようになったと考えられるという[10]。京域内を「洛中」と呼び、京域縁辺を「洛外」、京都以外から京都へ行くことを上洛と呼んだ。特殊な例ではあるが「下洛」という呼びかたも平家物語に見られる。これは山法師が京中を侵すことを指した。

「洛陽」という呼び方は現在でも私立洛陽総合高等学校といった固有名詞に残る。

「洛」のほうに関しては、現在でも京都に行くあるいは来ること、すなわち京都入りを「入洛」ということがある[11]。また今日の「洛南」「洛北」「洛西」「洛東」などといった表現はいずれも、京の外側の南・北・西・東を指す表現にすぎないが、これらの表現も京のことを「洛」の字で指すことで成立している。
歴史
平安遷都詳細は「平安京」を参照平安京復元模型(京都市平安京創生館で撮影)

京都は桓武天皇784年長岡京に続いて、794年平安京に遷都したことに始まる千年の都である。京都に都が移された理由は諸説ある。例えば、長岡京の建設責任者であった藤原種継が暗殺されたことや、長岡京が桂川や小畑川氾濫によりしばしば水害に遭ったからとする説、長岡京での早良親王怨霊説などである。

平安京は中国風水[注 2]に適う地(「四神相応の地」)として撰地されたとの伝えがあり、南に開け、他の三方を山に囲まれ、東に鴨川が、西に桂川が蛇行しながら南へと流れている。

京域は、東西約4.5km、南北約5.2kmの長方形で、内部は正方形の街区をもっていた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため、場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。本来なら羅城を巡らすべきであったが、羅城門の両側のみ羅城風の塀を設けた。南北は北辺の一条大路から九条大路まで、東西は東京極大路から西京極大路まで、皇居と官庁街を含む大内裏は一条大路と二条大路の間、(東)大宮大路と西大宮大路の間に設けられた。現在の千本通が当時の南北の中心街路である朱雀大路にあたり、真北には造都の基準となったとされる船岡山が位置していた。また、大内裏のすぐ南には禁苑である「神泉苑」が設けられ貴顕の遊びの場となるとともに干ばつに際しては雨乞いの場となった。この池は太古に京都盆地に広がっていた「古京都湖(古山城湖)」の名残とされる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef