京都府立洛北高等学校・附属中学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度2分45.9秒 東経135度46分17.1秒 / 北緯35.046083度 東経135.771417度 / 35.046083; 135.771417
京都府立洛北高等学校・附属中学校(きょうとふりつらくほくこうとうがっこう・ふぞくちゅうがっこう)は、京都府京都市左京区下鴨梅ノ木町に所在する府立中学校・高等学校。 1870年に日本最古の旧制中学校として創立された京一中(京都一中)を前身とする公立の高等学校。戦前から戦後にかけて京都大学へ多数の進学者を送り出す位置にあったが[1]、京都府は高校三原則の模範例となり、トップ校であった本校は1948年に廃校とされる。 1950年に再発足するも総合選抜など入試制度等改定の影響もあり、進学実績に関しては特に1970年代以降振るわないようになっていった。1985年にはスポーツコースも併設されるようになり、スポーツ系クラブ活動が盛んになった。2000年代に入ってから一連の公立高校改革の波に乗り、2004年に附属中学校を併設して中高一貫教育を開始した。中高一貫生を中心に進学実績は伸びている[2]。2018年度からはこれまでの普通科中高一貫コースから、新たにサイエンス科を創設した。 2007年度より5年間、2012年度より5年間、2017年度より5年間、スーパーサイエンスハイスクール (SSH) に指定されている。 1870年(明治3年)、東京府中学校が設立されたのを機に、従来の学習院(京都学習院)を改編した大学校代が「府学」として京都府に移管され、京都でも東京同様に太政官布告による京都府中学校が設立されるに至った。京都府中学校では東京府中学校と同様、規則や学科編成において国学・漢学・洋学の三学のせめぎ合いにあったが、これも東京府中学校と同様、漢学流でカリキュラム編成が実質的に運営されるようになった。国漢学と教授法において容易に調和しない洋学に関しては角倉の地に欧学校が設けられた。欧学校では英仏独語を教え、また、新英学校(女学校)および女紅場を包含する機構であったが、国漢学校だった京都府中学校はこの欧学校を包含した総称だった[3]。 1872年(明治5年)、学制頒布によって全国府県の学校は廃止された。京都府中学校も例外ではなく翌1873年(明治6年)2月に廃止されたが、当時の京都府の方針で市郡小学校取締所が設けられ、欧学校もその活力を止めることはなかった。同年3月、市郡小学校取締所の中に筆算局を設け、算術教師の育成を図ることにし、欧学校・立生校の生徒も兼修であった。同様に独逸学校が設けられていたが、これは現在の京都薬科大学の前身に当たる[3][4]。 1876年(明治9年)、師範学校設置準備を進め一部機能を移管するため「仮中学」と改称した。1879年(明治12年)、小学校卒業生増加の理由と、特に京都においては中学の基礎が出来ていたことも相まって「京都府中学校」が再度設立された[5]。 1888年(明治21年)、財政難の京都府に替わって京都府尋常中学校が現在の東本願寺(真宗大谷派)により併設される。1893年(明治26年)、京都府尋常中学校の京都府への返還後、東本願寺の学校は大谷尋常中学校(現在の大谷中学校・高等学校)となる。
概要
沿革
略歴