京都市動物園
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京都市動物園
Kyoto City Zoo


施設情報
前身京都市紀念動物園
専門分野総合
所有者京都市
管理運営京都市
園長坂本英房(2020年)
面積4.1ha
頭数548点(2020年)
種数122種(2020年)
来園者数120万人(2015年度)
開園1903年4月1日
所在地606-8333
京都府京都市左京区岡崎法勝寺町 岡崎公園内
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分46秒 東経135度47分10秒 / 北緯35.01278度 東経135.78611度 / 35.01278; 135.78611座標: 北緯35度0分46秒 東経135度47分10秒 / 北緯35.01278度 東経135.78611度 / 35.01278; 135.78611
公式サイト公式ウェブサイト
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京都市動物園(きょうとしどうぶつえん)は、京都府京都市左京区岡崎にある京都市立の動物園である。正式名称ではないが「岡崎動物園」と呼ばれることもある。周囲には平安神宮南禅寺ロームシアター京都京都市京セラ美術館京都府立図書館がある。
概要
開園

皇太子嘉仁親王(大正天皇)の結婚を記念し、1903年(明治36年)4月に「京都市紀念動物園」として開園した[1]。東京の上野動物園に次ぐ日本で2番目に古い歴史を持つ。開園当初は、らくだ、猿、鳩、鶉(うずら)、雁、鴨、梟、馬、鹿のみの飼育だった。いずれも宮内省からのもので、入園料は一人二銭だった[2]。開園にあたっては、東宮御慶事奉祝会が組織され、有志でお金を集め、市費も合わせて第四回内国勧業博覧会の跡地であった岡崎公園の市有地に建設が決定し、1901年(明治34年)から工事を始めるという流れだった[3]。また、開園日は3月31日の予定だったが、準備が完了せず、動物未着とも知らされ、開園日は4月1日になった。なお開園式は行われていない[4]
戦中

太平洋戦争中は1943年(昭和18年)4月8日に川端警察署から、警報発令中は動物園を休園とするよう命令があり、以後軍からの命令も増えていくこととなる。一部は地方の動物園に疎開したが、1944年(昭和19年)4月11日香川県栗林公園の動物園に疎開したヒョウが脱走、園外で射殺される事件も発生した[5]

1944年(昭和19年)3月12日には、軍の命令で猛獣類の即時の処分が言い渡される。翌日から3月25日にかけて、14頭の猛獣類が処分されている[6]。この猛獣類の処分は上野動物園東山動物園天王寺動物園等、他の動物園でも行われた。動物の死体は京都大学医学部に研究材料として引き取られている。なお昭和19年11月23日には処分した猛獣類の慰霊祭が行われている<[7]1940年(昭和15年)末には飼育動物数が哺乳類49種116点、鳥類153種721点、爬虫類6種122点、両生類1種6点、計209種956点だった。しかし終戦時は猛獣類の処分や飼料不足による栄養失調などにより、飼育動物数は、72種274点となり、名ばかりの動物園と化した[8]
戦後

戦後は1946年(昭和21年)3月27日付、アメリカ軍接収部隊、第一軍団技術部から京都市動物園接収の要求があった。隣接する美術館が第58通信大隊の基地となるため、動物園はその部隊の駐車場として利用ということだった[9]。動物園の敷地南半分が接収、撤去工事されたが、予想外の難工事のため、当初の予定の4月30日から遅れて5月19日まで接収と撤去工事が行われた[10]。これにより敷地面積の約5分の2が一時的に失われた[1]。6月には第二次接収問題が起こったが、当時の第9代園長西田季雅は陳情書を提出、なんとか中止された。その際、接収部隊の入園者調査などで接収調査を行っている段階では、園長が錦林小学校などの小学生を動員して、動物園を出てから、再びすぐ入園する再入園の工作で、入園者数を増やすなどの工作も行われたとされる[10]

接収で手狭になった状況を打開するため、1946年に京都市の関係部局は松ヶ崎に30万坪の動物園を建設し移転することを計画した。1948年には都市計画公園宝が池公園として京都市会に承認されたが、結局実現しなかった[11]
復興

戦後は戦中と同じく、飼料の調達に困難を極めていたが、接収したアメリカ軍の第58通信大隊の残飯を動物の飼料として提供する協定を結び、飼料を調達した[12]1948年(昭和23年)には児童のための音楽界や映画会などが催されるようになり、活気が出てくるようになる[13]。動物については、1950年(昭和25年)、アメリカのオーグル動物園から動物交換でライオン、ピューマ、コヨーテのメス各1頭が到着する[13]。8月16日にはタイからゾウ1頭とニシキヘビ2頭が到着。ゾウについては「都」と命名されている。1951年(昭和26年)4月8日には、「トム」と「メリー」と命名されるチンパンジーのオスメス2頭、5月24日には「太郎」と命名されるライオンのオスが導入され、収容動物を増やしていった[14]。動物の増加に比例して、来園者も増加し、復興のために当時の京都市長高山義三の名前で接収解除の嘆願が出されている。接収は1952年(昭和27年)5月1日に終了した[14]。接収解除による返還地の整備計画策定のために、動物園の職員が上野動物園へ出張し、飼育場の配置について検討がなされた。1952年(昭和27年)から1955年(昭和30年)にわたって整備工事が行われた[15]
リニューアル

京都市は2009年11月、「共汗で作る新「京都市動物園構想」」[16]を発表、開園以来の全面リニューアルを決定した[17]。当時の来園者数はピーク時の昭和50年代から比べて、6割程度になっているとはいえ、観光客が多く訪れる施設のため、リニューアルによる休園は行わず、ブロックごとに工事を行い、それ以外の部分は営業という方法で2015年11月にリニューアルオープンした[18]。リニューアル後は入園料不要の「図書館カフェ」なども新設されている[19]

2000年代以降は研究・教育体制の拡充を図っており、2008年には京都大学との研究・教育連携協定を締結し、2013年に生き物・学び・研究センターを設立した。また、2018年には文部科学省から学術研究機関の指定を受け、科学研究費助成事業を受けることが可能になった[20]

また、2020年には動物福祉に関する指針を策定している[21]。動物福祉に関する取り組みの一例として、2020年1月31日にライオン「ナイル」が25歳10ヶ月(当時国内最高齢)で死亡したのを最後に、ライオンの展示を行わないこととしている。


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