京都市中京区の町名
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京都市中京区の町名(きょうとしなかぎょうくのちょうめい)では、京都府京都市中京区内に存在する公称町名を一覧化するとともに、その成立時期・成立過程等について概説する。
区の概要

京都市街地のほぼ中央に位置する。東は左京区東山区、西・南・北はそれぞれ右京区下京区上京区に接し、西北のごく一部が北区に接する。令和2年(2020年)9月現在、面積7.41平方キロメートル推計人口は110,388人[1]昭和4年(1929年)に上京区・下京区の各一部をもって新設された区である。

区の東には鴨川が流れ、東山区との境をなす。区の中央部北寄りには二条城が広大な面積を占める。区の南東部、四条河原町周辺は市内随一の繁華街で、花街の面影を残す先斗町(ぽんとちょう)、アーケード商店街寺町京極商店街新京極商店街錦市場商店街、京都市役所も区内にある。
通り名を用いた住所表示詳細は「京都市内の通り#住所」を参照

日本における住所表示は、建物の面している道路名ではなく、建物が所在する(あざ)の名をもって表記されるのが普通であるが、京都の市街地においては明治22年(1889年)の京都府告示第24号[2]によって「通り名」を用いた住所表示が行われている。この告示では住所の記載書式を「京都市何区何通何小路何町上ル下ル又ハ東入西入何町何番戸」と定めている。この方式では、まず、家屋、ビルなどが直接面している通りの名を先に記し、その後に直近で交差する通りの名を「通」部分を省略して付記し、「上ル(上る)」(あがる)、「下ル(下る)」(さがる)[3][4]、「東入」(ひがしいる)、「西入」(にしいる)等と表記する[5]

A通B西入 - 建物はA通(東西方向の道)に面しており、B通(南北方向の道)との交差点から西に入った地点にある。

C通D上る - 建物はC通(南北方向の道)に面しており、D通(東西方向の道)との交差点から北に入った地点にある。

通常は上記のような通り名のみで住所を表示するが、「A通B西入」等の後に町名・番地を併記する場合もある。たとえば、京都市役所の所在地は「京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番地」と表示する[6]。また、旧京都市電停留所バス停留所の名前等で交差点名として確立している場合、通りの名前の表記順が逆転する場合もある。たとえば、「烏丸御池東入ル」「千本丸太町西入ル」など。
町名の概要
町数など

京都市内の町名には「大原来迎院町」のように旧村名、旧大字名に由来する地名(上記例の場合は「大原」)を冠称するものと、「亀屋町」・「菊屋町」のような単独町名とがある。中京区においては、区のほぼ東半分の地域の町名は単独町名であり、西部は市町村合併以前の地名を継承する「聚楽廻」・「西ノ京」・「壬生」を冠称する町名となる。

区内の公称町名の数は、『角川日本地名大辞典 26 京都府』下巻によれば昭和55年(1980年)現在498町である。その後、土地区画整理事業実施に伴う町名町界の変更があり、令和6年(2024年)現在は499町となっている。なお、本項における公称町名一覧と町数の記載は、便宜上『角川日本地名大辞典』を基準とするため、「所管区域条例」の公称町名一覧とは一致しない(#備考を参照)。

京都市においては「住居表示に関する法律」(昭和37年5月10日法律第119号)に基づく住居表示は実施されておらず[7]、市内の公称町名については、「京都市区の所管区域条例」(昭和24年4月1日京都市条例第7号)が根拠となっている。「所管区域条例」に列挙される中京区の町名は『角川日本地名大辞典』のそれとおおむね一致するが、細部には差異がある(「備考」の項を参照)。
沿革

近世には、二条通以北を上京、以南を下京と称し、上京には「上京十二組」(上古京十二組[8])、下京には「下京八組」(下古京八組[9])という町組(ちょうぐみ)が組織されていた。また、上京にあって「上京十二組」に属しない「禁裏六丁町」、下京にあって「下京八組」に属しない「東本願寺寺内」、「西本願寺寺内」も存在した。町組は近隣の町の連合体、自治組織であり、その起源は判然としないが、室町時代天文6年(1537年)には存在が確認される[10]

明治元年(1868年)に京都府が成立すると、同年11月に上京・下京を上大組・下大組と称し、従来の町組は上京一番組?四十五番組、下京一番組?四十一番組に解体・再編成されるが(第一次町組改正)、翌明治2年(1869年)1月の第二次町組改正で、上京(上大組)と下京(下大組)の境界を二条通から三条通に変更し、上京第一?第三十三番組、下京第一?第三十二番組に再編成された。明治5年(1872年)には「番組」が「区」に改められ、上京第一?第三十三区、下京第一?第三十二区となった。上京が33、下京が32に区分される点は変わらないが、旧下京第二十四番組が下京第七区と第十五区に二分され、旧下京第二十二番組と第三十二番組が統合されて下京第十六区になっている。明治12年(1879年)4月10日、郡区町村編制法により京都府に上京区・下京区が設置されると、前述の「区」は、番号はそのままで「組」と改称、上京第一?第三十三組、下京第一?第三十二組となる。明治21年(1888年)には上京区・下京区に編入された愛宕郡の旧村の区域に上京区第三十四組及び下京区第三十三組が新設された[11]。明治22年(1889年)4月1日、 市制施行により京都市が発足[12]、上京区・下京区は京都市の区となる。

明治25年(1892年)には「組」を「学区」に改組。旧上京第一?第三十四組、下京第一?第三十三組は上京第一?第二十八学区、下京第一?第三十二学区に編成された[13]。このうち、上京第十八?第二十六学区と下京第一?第六学区が現在の中京区の東半部に相当する。

昭和4年(1929年)4月1日、上京区・下京区の各一部を分区して中京区が新設された。また、学区名に小学校名を付して「梅屋学区」「竹間学区」のように称するようになる。昭和16年(1941年)の国民学校令施行に伴い、昭和17年(1942年)に学区制は廃止された。したがって、これらの学区は現在では正式の行政区域ではないが、「元学区」という形で、地域の通称としては現在も使われている。なお、小学校の統廃合等により、元学区と現在の通学区とは一致していない。

下の表は、上述の変遷をまとめたものである。
中京区の元学区の変遷

明治2年(1869年)明治5年(1872年)明治12年(1879年)明治25年(1892年)昭和4年(1929年
上京第二十番組上京第二十三区上京第二十三組上京第十八学区梅屋学区
上京第二十一番組上京第二十四区上京第二十四組上京第十九学区竹間学区
上京第二十二番組上京第二十五区上京第二十五組上京第二十学区富有学区
上京第二十三番組上京第二十六区上京第二十六組上京第二十一学区教業学区
上京第二十四番組上京第二十七区上京第二十七組上京第二十二学区城巽学区
上京第二十五番組上京第二十八区上京第二十八組上京第二十三学区龍池学区
上京第二十六番組上京第二十九区上京第二十九組上京第二十四学区初音学区
上京第二十七番組上京第三十区上京第三十組上京第二十五学区柳池学区
上京第三十一番組上京第三十一区上京第三十一組上京第二十六学区銅駝学区
下京第一番組下京第一区下京第一組下京第一学区乾学区
下京第二番組下京第二区下京第二組下京第二学区本能学区
下京第三番組下京第三区下京第三組下京第三学区明倫学区
下京第四番組下京第四区下京第四組下京第四学区日彰学区
下京第五番組下京第五区下京第五組下京第五学区生祥学区
下京第六番組下京第六区下京第六組下京第六学区立誠学区

区内の東半部の町名は、おおむね近世以来の町界・町名を現代に引き継いでいる。ただし、明治時代の初期に数か町が合併して新たに命名された町、寺院境内地など、従来町名のなかった土地に新たに起立した町名なども一部に存在する。二条城の敷地を町域とする「二条城町」は昭和14年(1939年)11月24日に成立したものだが[14]、他の単独町名は遅くとも明治時代初期には成立している。
公称町名の一覧
単独町名

五十音順の町名一覧は、外部リンクの京都市通学区町名一覧、郵便番号一覧を参照のこと。


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