京都市下京区の町名
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京都市下京区の町名(きょうとししもぎょうくのちょうめい)では、京都市下京区内に存在する公称町名を一覧化するとともに、その成立時期・成立過程等について概説する。
区の概要

京都市街地の南寄りに位置し、東は東山区、西は右京区、南は南区、北は中京区に接する。令和2年(2020年)9月現在、面積6.78平方キロメートル推計人口は82,250人[1]

京都市制以前の明治12年(1879年)4月10日、京都府に上京区と下京区が設置された。同年11月1日、葛野郡中堂寺村・八条村・西九条村・東塩小路村の各一部を本区に編入[2]。明治21年(1888年)6月25日、愛宕郡清閑寺村と今熊野村を編入[3]。明治22年(1889年)4月1日の京都市制に伴い、京都市下京区となる[4]。明治27年(1894年)12月12日、葛野郡大内村大字八条小字二人塚の一部を本区薬園町に編入[5]。明治35年(1902年)2月1日、葛野郡大内村大字東塩小路及び大字西九条を本区に編入[6]。大正7年(1918年)4月1日、葛野郡朱雀野村・大内村・七条村および西院村の一部、紀伊郡柳原町および東九条村の一部・上鳥羽村の一部・深草村の一部を本区に編入[7]。昭和4年(1929年)4月1日、上京区・下京区の各一部を分区して中京区が、鴨川以東の地域を分区して東山区が新設された。昭和6年(1931年)4月1日、紀伊郡吉祥院村・上鳥羽村を本区に編入[8]。昭和30年(1955年)9月1日に当時の国鉄東海道本線以南を南区として分区して以来、現在の区域となる。明治以降に編入された愛宕郡・葛野郡・紀伊郡の旧村の区域は、現在は大部分が中京区・東山区・南区に属している。

区の東側には鴨川が流れて東山区との区境をなし、区の南端にはJR東海道本線JR京都線琵琶湖線)および東海道新幹線が走り南区との区境をなしており、京都駅は当区に位置する。区内にはほかに京都タワー東本願寺西本願寺京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)などの観光地がある。
通り名を用いた住所表示

日本における住所表示は、建物の面している道路名ではなく、建物が所在する町や(あざ)の名をもって表記されるのが普通であるが、京都の市街地においては例外的に「通り名」を用いた住所表示が行われている。この方式では、まず、家屋、ビルなどが直接面している通りの名を先に記し、その後に直近で交差する通りの名を「通」部分を省略して付記し、「上ル(上る)」(あがる)、「下ル(下る)」(さがる)[9][10]、「東入」(ひがしいる)、「西入」(にしいる)等と表記する[11]

A通B西入 - 建物はA通(東西方向の道)に面しており、B通(南北方向の道)との交差点から西に入った地点にある。

C通D上る - 建物はC通(南北方向の道)に面しており、D通(東西方向の道)との交差点から北に入った地点にある。

通常は上記のような通り名のみで住所を表示するが、「A通B西入」等の後に町名・番地を併記する場合もある。たとえば、下京区役所の所在地は「下京区西洞院通塩小路上る東塩小路町608番地の8」と表示する[12]。また、旧京都市電停留所バス停留所の名前等で交差点名として確立している場合、通りの名前の表記順が逆転する場合もある。たとえば、「四条烏丸下る」「烏丸七条東入」など。

郵便番号の7桁化により、通り名を省略しても、郵便物は届く。
町名の概要
町数など

京都市内の町名には「大原来迎院町」のように旧村名、旧大字名に由来する地名(上記例の場合は「大原」)を冠称するものと、「亀屋町」「菊屋町」のような単独町名とがあるが、下京区においては区の東部の町名はすべて単独町名であり、西部は「中堂寺」・「西七条」などの旧村名を冠した町名となっている。

区内の公称町名の数は、『角川日本地名大辞典 26 京都府』下巻によれば昭和55年(1980年)現在511町である。この町数は令和3年(2021年)現在も変化していない。なお、「大宮一丁目?三丁目」・「天使突抜一丁目?四丁目」・「突抜壱丁目・弐丁目」の「丁目」を各1町と数えた場合は6町増えて517町となる。

京都市においては「住居表示に関する法律」(昭和37年5月10日法律第119号)に基づく住居表示は実施されておらず[13]、市内の公称町名については、「京都市区の所管区域条例」(昭和24年4月1日京都市条例第7号)が根拠となっている。「所管区域条例」に列挙される下京区の町名は『角川日本地名大辞典』のそれとおおむね一致するが、細部には違いがある(「備考」の項を参照)。
沿革

近世には、二条通以北を上京、以南を下京と称し、上京には「上京十二組」(上古京十二組[14])、下京には「下京八組」(下古京八組[15])という町組(ちょうぐみ)が組織されていた。また、上京にあって「上京十二組」に属しない「禁裏六丁町」、下京にあって「下京八組」に属しない「東本願寺寺内」、「西本願寺寺内」も存在した。町組は近隣の町の連合体、自治組織であり、その起源は判然としないが、室町時代天文6年(1537年)には存在が確認される[16]

明治元年(1868年)に京都府が成立すると、同年11月に上京・下京を上大組・下大組と称し、下京の町組は下京一番組?四十一番組に解体・再編成されるが(第一次町組改正)、翌明治2年(1869年)1月の第二次町組改正で、上京(上大組)と下京(下大組)の境界を二条通から三条通に変更し、下京第一?第三十二番組に再編成された。明治5年(1872年)には「番組」が「区」に改められ、下京第一?第三十二区となった。下京が32に区分される点は変わらないが、旧下京第二十四番組が下京第七区と第十五区に二分され、旧下京第二十二番組と第三十二番組が統合されて下京第十六区になっている。明治12年(1879年)4月10日、郡区町村編制法により京都府に上京区・下京区が設置されると、前述の「区」は、番号はそのままで「組」と改称、下京第一?第三十二組となる。

明治21年(1888年)6月25日、下京区に編入された旧愛宕郡の区域に下京区第三十三組が新設された[3]。明治22年(1889年)4月1日、市制施行により京都市が発足[4]、上京区・下京区は京都市の区となる。明治25年(1892年)には「組」を「学区」に改組。旧下京第一?第三十三組は下京第一?第三十二学区に編成された[17]。このうち、第九?第十四、第十六?第十九、第二十三?第二十六、第二十九、第三十学区の全部と第三十二学区の一部が現在の下京区に属し、第三十二学区の南部は南区、残余の学区は中京区・東山区に属する。

昭和4年(1929年)4月1日、上京区・下京区の各一部を分区して中京区が、鴨川以東の地域を分区して東山区が新設された。また、学区名に小学校名を付して「郁文学区」・「格致学区」のように称するようになる。昭和16年(1941年)の国民学校令施行に伴い、昭和17年(1942年)に学区制は廃止された。したがって、これらの学区は現在では正式の行政区域ではないが、「元学区」という形で、地域の通称としては現在も使われている。なお、小学校の統廃合等により、元学区と現在の通学区とは一致していない。

下の表は、上述の変遷をまとめたものである。
下京区の元学区の変遷

明治2年(1869年)明治5年(1872年)明治12年(1879年)明治25年(1892年)昭和4年(1929年
下京第七番組下京第九区下京第九組下京第九学区郁文学区
下京第八番組下京第十区下京第十組下京第十学区格致学区
下京第九番組下京第十一区下京第十一組下京第十一学区成徳学区
下京第十番組下京第十二区下京第十二組下京第十二学区豊園学区
下京第十一番組下京第十三区下京第十三組下京第十三学区開智学区
下京第十二番組下京第十四区下京第十四組下京第十四学区永松学区
下京第二十二番組下京第十六区下京第十六組下京第十六学区淳風学区


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