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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}京都市 > 上京区 > 町名上京区の位置
本項京都市上京区の町名(きょうとしかみぎょうくのちょうめい)では、同区内に存在する公称町名を一覧化するとともに、その成立時期・成立過程等について概説する。 京都市街地の北部に位置する。東は左京区、北から西は北区、南は中京区に接する。面積7.11平方キロメートル。2009年3月現在の推計人口は約82,000人。 京都市制以前の明治12年(1879年)、京都府に「上京区」「下京区」が設置された。明治21年(1888年)には愛宕郡(おたぎぐん)の一部の村を編入。明治22年(1889年)、京都市制施行とともに京都市上京区となる。大正7年(1918年)には愛宕郡及び葛野郡(かどのぐん)の一部の村を編入した。昭和4年(1929年)、区の南部と東部の一部地域が分離され、新設の中京区、左京区、東山区に編入された。昭和30年(1955年)に北区を分区して以来、現在の境域となる。明治以降編入された愛宕郡及び葛野郡の旧村の区域は、現在は北区、左京区及び東山区に属している。 区の東には鴨川、西には天神川が流れ、それぞれ区境をなしている。区の東部には京都御所を含む京都御苑が広大な面積を占める。区内には他に相国寺、北野天満宮、同志社大学キャンパス、京都府庁などがある。 京都の市街地においては「通り名」を用いて住所を表記することが行われている。この方式では、まず、家屋、ビルなどが直接面している通りの名を先に言い、その後に直近で交差する通りの名を付記し、「上ル/上る」(あがる)、「下ル/下る」(さがる)[1]、「東入」(ひがしいる)、「西入」(にしいる)等と表記する。 明治22年(1889年)の市制施行時に京都市域であった場所では、町名・番地の前に「A通B西入」等を併記したものが公式な住所の表記として用いられるが、通常は上記のような通り名による表記のみで住所を表す。(→「詳しくは京都市内の通り#住所」を参照。) 京都市内の町名には「大原来迎院町」のように旧村名、旧大字名に由来する地名(前記例の場合は「大原」)を冠称するものと、「亀屋町」「菊屋町」のような単独町名とがあるが、上京区内の町名はすべて単独町名である。 区内の公称町名の数は、『角川日本地名大辞典 26 京都府』下巻によれば581町(1980年現在)であり、この町数は2009年現在も変化していない。なお、「笹屋町一・二・三丁目」「笹屋四・五丁目」「猪熊一・二丁目」を各1町とカウントした場合は、4町減って577町となる。 京都市においては「住居表示に関する法律」に基づく住居表示は実施されておらず、市内の公称町名については、「京都市区の所管区域条例」(昭和24年4月1日京都市条例第7号)が根拠となっている。「所管区域条例」には上京区に属する町として581町が挙げられており、上記『角川日本地名大辞典』と一致している[2]。 近世の京都では、二条通以北を上京、以南を下京と称し、上京には「上京十二組」「禁裏六丁組」、下京には「下京八組」という町組(ちょうぐみ)が組織されていた。町組は近隣の町の連合体、自治組織であり、その起源は判然としないが、室町時代には存在が確認される。 慶応4年(1868年)、京都府の成立とともに、上京の町組は1 - 45番組に編成されるが、翌明治2年(1869年)には町組改正で上京1 - 33番組に再編成された。明治5年(1872年)には上京1 - 33番組が上京1 - 33区と改められ、33に区分される点は変わらないが、旧1番組が3区になるなど、番号を振る順番が変化している。明治12年(1879年)、京都府に上京区・下京区が設置されると、前述の「区」は、番号はそのままで「組」と改称、上京1 - 33組となる。明治22年(1889年)、京都市制とともに、上京区・下京区は京都市の区となる。なお、近世と違い、二条通ではなく三条通が上京・下京の境となっている。この間、明治15年(1882年)には上京12組が同11組に編入。明治21年(1888年)には同年上京区に編入された旧愛宕郡の村域に上京34組が設定された。 明治25年(1892年)には「組」を「学区」に改組。旧上京1 - 33組は、上京第1 - 28学区に編成された。2ないし3の組を統合して1つの学区とした例があるため、数は33から28に減少している。このうち、第1 - 17学区がほぼ現在の上京区に相当し、第18 - 26学区は中京区の一部、27・28学区は左京区の一部にあたる。 昭和4年(1929年)に上京区の一部は新設の中京区、東山区、左京区に分離された。同年、学区名に小学校名を付して「成逸学区」「室町学区」のように称するようになる。昭和16年(1941年)の国民学校令の発布とともに学区制は廃止された。したがって、これらの学区は現在では正式の行政区域ではないが、「元学区」という形で、地域の通称としては現在も使われている。なお、学校の統廃合等により、元学区と現在の通学区とは一致していない。 下の表は、上述の変遷をまとめたものである。 上京区の元学区の変遷 明治2年明治5年明治12年明治25年昭和4年 区内の町名は、おおむね近世以来の町界・町名を現代に引き継いでいる。ただし、明治時代の初期に数か町が合併して新たに命名された町、北野天神の社領など、従来町名のなかった土地に新たに起立した町名などもかなりの数が存在する。京都御苑の地域には「京都御苑」という町名が付けられている。上京区の町としての「京都御苑」は昭和35年(1960年)に成立した。区内の他の町は遅くとも明治時代の初期には成立している。 区の北西部、翔鸞学区の区域は、大部分が北野天神の社領で、明治元年(1868年)に上京に編入されたものである。ただし、この地区の町名は大部分が近世以来のものである。区の南西部、仁和学区の区域は、大部分が旧葛野郡聚楽村、西ノ京村、大将軍村の各一部で、これらの村のうち早くから町地化していた区域(洛外町続)が明治元年に上京に編入されたものである。この地区の町名も大部分は近世以来のものである。 ※五十音順の町名一覧は外部リンクの郵便番号一覧を参照。 元学区公称町名町数
区の概要
通り名を用いた住所の表記詳細は「京都市内の通り#住所」を参照
A通B西入 - 建物はA通(東西方向の道)に面しており、B通(南北方向の道)との交差点から西に入った地点にある。
C通D上る - 建物はC通(南北方向の道)に面しており、D通(東西方向の道)との交差点から北に入った地点にある。
区内の町名の概要
町名の数など
町名の沿革
上京2番組上京1区上京1組上京第1学区成逸学区
上京6・7・13番組上京5・2・10区上京5・2・10組上京第2学区室町学区
上京1番組上京3区上京3組上京第3学区乾隆学区
上京5番組上京4区上京4組上京第4学区西陣学区
上京3番組上京6区上京6組上京第5学区翔鸞学区
上京4番組上京7区上京7組上京第6学区嘉楽学区
上京11番組上京8区上京8組上京第7学区桃薗学区
上京12番組上京9区上京9組上京第8学区小川学区
上京28・29番組上京11・12区上京11・12組上京第9学区京極学区
上京8・9番組上京13・14区上京13・14組上京第10学区仁和学区
上京10番組上京15区上京15組上京第11学区正親学区
上京15番組上京16区上京16組上京第12学区聚楽学区
上京16番組上京17区上京17組上京第13学区中立学区
上京14番組上京18区上京18組上京第14学区出水学区
上京17番組上京19区上京19組上京第15学区待賢学区
上京18・19番組上京20・21区上京20・21組上京第16学区滋野学区
上京30番組上京22区上京22組上京第17学区春日学区
公称町名一覧
成逸瑞光院前町、天神北町、上天神町、下天神町、寺之内竪町、若宮横町、若宮竪町、筋違橋町、新ン町、北仲之町、仲之町、前之町、東千本町、西千本町、社突抜町、社横町、西若宮北半町、西若宮南半町、竪社北半町、竪社南半町、東若宮町、東社町、中社町、薬師前町、田畑町、扇町26
室町森之木町、竹園町、下清蔵口町、岩栖院町、内構町、玄蕃町、継孝院町、上柳原町、下柳原北半町、下柳原南半町、室町頭町、柳図子町、裏風呂町、上木下町、下木下町、木下突抜町、大心院町、畠中町、道正町、内藤町、安楽小路町、挽木町、禅昌院町、本法寺前町、射場町、納屋町、古木町、妙顕寺前町、宝鏡院東町、裏築地町、上立売東町、高徳寺町、上御霊竪町、上御霊前町、上御霊中町、上御霊馬場町、上立売町、新御霊口町、相国寺門前町、蒔鳥屋町、築山北半町、築山南半町、瓢箪図子町、畠山町、中御霊図子町、元新在家町、新北小路町、玄武町、今出川町、岡松町、御所八幡町51[注 1]
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