京都大学西部講堂
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出典検索?: "京都大学西部講堂" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2014年5月)
西部講堂(1991年5月

西部講堂(せいぶこうどう)は、京都大学吉田キャンパス西部構内にある厚生施設の一つ。京都大学所属のサークルのBOX(部室)等があるほか、音楽コンサートをはじめとした各種イベントが不定期に開催されている。
沿革

1937年 - 皇太子明仁親王の生誕を祝して京都帝国大学に建築された。

1963年 - 現在地に移築。

ロック黎明期の西部講堂

1969年、京大全共闘の実質的な指導部の一人であった高瀬泰司(元京都府学連委員長)が、同年、京大教養部で「バリ祭」「反大学」を演出し、時計台の陥落・百万遍カルチェ・今出川解放区の壊滅(9月)のあと、残された拠点である西部講堂で活動を開始したのが、ロックと西部講堂の出会いの始まりだった。西部講堂に関わっていたのは京大生だけでなく、当時、立命館寮連合、同志社大学学生放送局、京都芸大サークルなど、多くの学生が西部講堂に出入りしていた。木村英輝、小松辰男]もその中にいた。

1970年12月31日、「FUCK '70」と題したイベントが西部講堂で大音響とともに始まった。「なにが黄金の70年代や」、「紅白だけが大晦日か」との主張の下、大晦日の徹夜ロックフェスティバルが行われた。このイベントは京都の大晦日の恒例行事になっていった。このコンサートに出演できれば「翌年必ずマスコミに売れる」とまで言われた。実際にジョニー大倉矢沢永吉などが出演し、後にヒットした。

さらに、隔週土曜日のコンサート「MOJO WEST」が始まった。パンフレットには、「MOJO WESTとは自由を求める集団ですか。いいえわれわれは秩序を求めます。それは新しい秩序であり、新しい関係であり、自律であり、責任である。仕事であり、作業である」とあった。このMOJO WESTを機に、西部講堂と学外のグループ、個人との交流がさらに広がることになる。沢田研二PYGChar村八分かまやつひろしカルメン・マキなどが西部講堂に登場。イベントの前夜から、新宿ヒッピーが京都へ、西部講堂へとヒッチハイクで移動してきた。

1972年1月、府立体育館で行われた「MOJO」では、ザ・モップス、カルメン・マキ、頭脳警察ら、西部講堂出身のミュージシャンが街に繰り出した格好となった。同じ頃、京大経済学部助手の竹本信弘朝霞自衛官殺害事件の容疑で全国指名手配になった。竹本関連でガサ入れになったスナックのいくつかからこの「MOJO」の前売券が見つかったことから、公安警察が会場の府立体育館を囲み、緊迫した雰囲気の中で行われた。

1972年8月16日は、京大農学部グラウンドから、如意ヶ嶽の大きな「大文字」が見える日であった。そのグラウンドで「三里塚空港粉砕」をスローガンにした「幻野祭」が行われた。三里塚の野火と京都の大文字の送り火を繋ぐというコンセプトで、ウエスト・ロード・ブルース・バンドや頭脳警察、豊田勇造らが出演した[1]

この京都の幻野祭に連動して、奇抜なペイントが西部講堂に出現した。炎天下に十数人の男たちが数日間かけて、西部講堂の大屋根をライトブルーに塗り上げた。青い空に純白の雲が浮かび、さらに赤いオリオン座三ツ星が大屋根に光を放った。そもそもは、美大生によるシュールレアリズム風のデザインで、三ツ星を模様として選択したものに過ぎなかったが、日本共産党がこのペイントを見て「(テルアビブ空港乱射事件に参加した)日本赤軍の三人の兵士だと指摘」し、物議をかもすことになった。事件で逮捕された岡本公三が裁判において、「われわれ3人は、死んでオリオンの3つ星になろうと考えていた。(中略)革命戦争はこれからも続くし、いろんな星がふえると思う。しかし、死んだあと、同じ天上で輝くと思えば、これも幸福である」と陳述したことを指していると思われる。日本共産党の指摘に対し、西部講堂のメンバーらは逆に開き直って、「己の生きるシルシとして、3ツの赤い星を永遠の刻印として刻むことにした」と主張した。幻野祭の当日、乱射事件で死亡した奥平剛士安田安之の追悼集会を西部構内で行い、西部講堂から農学部グラウンドまでをつなぐ一大ページェントとして幻野祭を実行した。


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