京都大学ギャングスターズ
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京都大学ギャングスターズ
KYOTO UNIVERSITY GANGSTERS
創設:1947年(77年前)
加盟:1947年シーズン
リーグ
関西学生アメリカンフットボール連盟・DIV.1
練習場
京都大学農学部グラウンド京都府京都市
チーム情報
愛称GANGSTERS
チームカラー.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  グリーン
  ブラック
運営母体京都大学
GM三輪誠司
監督相原敬
公式サイト ⇒gangsters-web.com
獲得タイトル

リーグ優勝(10回)
1976, 1982, 1983, 1986, 1987, 1990, 1991, 1992, 1995, 1996

ライスボウル優勝(5回)
1983, 1986, 1987, 1995

甲子園ボウル優勝(6回)
1983, 1986, 1987, 1992, 1995, 1996

京都大学ギャングスターズ(きょうとだいがくギャングスターズ, 英語: KYOTO UNIVERSITY GANGSTERS)は京都大学体育会に所属するアメリカンフットボールチームである。1947年に創部、関西学生アメリカンフットボール連盟所属。
略歴
創成期

海軍から復学した澤田久雄らにより、1947年に創部。全国で10番目、関西で4番目、国公立大学としては初めてだった。創部には前年1946年のリーグ戦優勝校同志社大学の伊藤荘造主将(当時、後の同志社大学監督)の協力があった(この創部当時のいきさつにより、秋季リーグの京大×同志社戦の勝利校には「京同釜」が与えられる)。同年関西学生アメリカンフットボール連盟に加盟し、秋のリーグ戦に参加。初代監督には進駐軍京都軍政部に勤務していたジョン・ピンカーマンを迎えた。

創部以来チームは2年間最下位に低迷するが、1949年には関西学院大学と優勝を争う。関学は1948年に関大と両校優勝するもプレーオフに敗れ甲子園ボウル出場を逃がしており、京大、関学とも初の甲子園ボウル出場を目指していた。両校の対戦は19-13で関学が勝利し、初の単独優勝、初出場となった甲子園ボウルでも慶應を下して初優勝する。一方で京大はこの年を境に下位に低迷し、1957年には部員不足によりリーグ戦を辞退する。

以降も京大の低迷は続き、1965年まで常に下位3校に位置していた(リーグ戦参加校は、1956年から1966年まで、関大、同志社、関学、京大、立命、甲南の6校であった)。
関学の連勝を145でストップ

1961年に、ピンカーマン初代監督の後を引き継いだ神田綽夫監督が退任。後任に藤村重美(市立西宮高校教諭、同校タッチフットボール部監督)が監督に就任する。この年、入部したのが2011年まで監督を務めた名将水野弥一である。水野は学部卒業後、大学院に進学し、コーチに就任。チームは徐々に実力を高める。

1967年、外語学校講師だったジョージ・T・リーがコーチに就任。チームの名称のギャングスターズは、リーコーチが導入した「ギャングスター・パス」という戦法に由来して名付けられた。水野コーチは1968年に大学院を修了し、自動車メーカーに就職。仕事の傍らコーチを続けた。京大は1970年に1949年以来の2位になるが、関学の壁を破ることは出来なかった。水野は辞職してアメリカに留学することを決意する。

1971年から水野はコロラド鉱山大学に留学、OBで大学院生の金氏眞がヘッドコーチに就任する。金氏コーチはオプション攻撃を導入。これが後の京大隆盛の基礎となる。1973年には水野が帰国してヘッドコーチ(1974年から監督)に就任。1974年からオフェンスの新体形としてウイッシュボーンを導入し、トリプルオプションが威力を発揮する。チームは1971年3位の後、1972?1975年の4年間2位となり、1975年には関学に一旦リードしながら逆転負け(京大14?24関学)する等、関学との実力差は以前より確実に縮まった。

1976年、京大はウィッシュボーン隊形をやめ、Iフォーメーションからのトリプルオプションを採用。最終節の関学戦で、遂に初勝利(京大21?0関学)を挙げる。関学はこの敗戦により1948年より続いていた連勝記録が145でストップする[1]。しかし、関大戦では16?20で敗戦していたため、6勝1敗で関学と両校優勝となる。プレーオフでは関学が13?0で勝利、京大の甲子園ボウル出場はならなかった。
涙の日生球場

前年の1976年に関学の145連勝を止めた京大は、翌1977年は春の西日本選手権大会では35-0で関学に圧勝し、優勝候補の本命として秋のリーグに挑んだ。関学も春の不調からチームを立て直し、最終節に両校は全勝で対決することとなった。

この試合は、当初万博記念競技場で11月20日に開催される予定であったが、急遽毎日放送で中継(録画)されることになり、試合開催が1週間繰り上がって11月13日となった。これにより万博記念競技場が使用出来なくなり、代替の試合会場として今までリーグ戦の試合が行われたことがない日生球場で開催されることとなった。

春の試合に大勝し、リーグ戦での総得点で上回っていた(前節まで関学の総得点353、京大の総得点436であった)ことから、下馬評は京大有利と言われており、前半京大が14-7とリードする展開となる。しかし、そこから関学が追い上げ第4クォーターに2ポイントコンバージョンを決め逆転する。最後は関学がもう1本TDを加え、終了間際の京大の攻撃を凌ぎ切り勝利を収めた(関学29-21京大)。

試合終了後、リーグ連続優勝記録を更新し安堵した関学の選手の目に涙があったことから、この試合は「涙の日生球場」として語り継がれている。また、日生球場(1997年に解体)での最初で最後のリーグ戦の試合となったこともあり、関西学生リーグ史に残る特別な試合とされている。
初の甲子園ボウル出場

1977年シーズン後、水野は総監督となり、指導の第一線から退く。後任には笹原明雄が就任。パス攻撃への転換を図ったが浸透せず、1979年には、関学、同志社に敗れ、近大に引き分けて4位に沈む。

1980年には水野が監督に復帰。RB松田明彦の活躍により関学に35-28で5年振りに勝利する。しかし、同志社、近大に敗れて3位に終わる。1981年には水野が監督に専任するが、関学に48?0で惨敗し2位に終わった。

1982年は春の関京戦の試合中の不慮の事故で部員が死亡。苦しい状況で秋のシーズンを迎えた。下馬評は決して高くなかった京大であったが、全勝同士で最終節の関学戦を迎える。この試合は、京大守備が関学攻撃を封じ、17?7で京大が勝利。京大は2回目の優勝(初の単独優勝)を決め、悲願の甲子園ボウル出場を決めた。関学は1949年からの甲子園ボウル連続出場が33で、1948年からの連続優勝は34で途切れた。初出場となった甲子園ボウルでは4連覇中の日大に28-65で一蹴されたものの、チャック・ミルズ杯は、リーグで1000ヤードラッシャーを達成、甲子園ボウルでも未だに最多ラッシング記録となる312ヤードを記録[2]した、RB松田主将が受賞した。

1983年も再び最終節で関学と全勝対決となった。京大はQB大社充のパスでTDを量産、30-14と前半をリードすると、後半登場した関学QB小野宏(関学コーチ・2013年現在[3])の攻撃をTD2本で凌ぎ、30-28の僅差で勝利。リーグ戦2連覇を達成した。京大は勢いに乗って、甲子園ボウルでは5連覇中の日大のショットガン攻撃を封じて、30-14で勝利して初優勝、更にこの年度から日本選手権となったライスボウルではレナウンローバーズに29-28で勝利して、初代日本一に輝いた。
黄金期到来

京大に2年連続甲子園ボウル出場を許した関学は、1984年に木谷監督が就任。パスを中心とした攻撃で再び優勝を奪い返した。続く1985年も春の西日本選手権では京大に完敗した関学が秋に巻き返して2年連続の全勝優勝を飾った。一方京大は、1984年は関学、近大に敗れ、立命館にも引き分けて3位、1985年も近大に敗れ2位に終わった。

1986年、京大はQB東海辰弥、RB西田温信を中心としたオプション攻撃が復活、秋のリーグ戦を順調に勝ちあがった。全勝対決となった関京戦では35-7と関学を圧倒して3年振りのリーグ優勝を決めた。この年の甲子園ボウルでは日大に快勝、ライスボウルでもレナウンに僅差で勝利して、日本一に輝く。1987年、4回生となったQB東海を中心とした京大は再びリーグ戦を全勝優勝。甲子園ボウルでは日大に、ライスボウルではレナウンに圧勝して2年連続の日本一を達成した。


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