京都の学区
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京都の元学区(きょうとのもとがっく)は、明治改元の前後に行われた町組改正により再編され、日本で最初の学区制小学校である64校の番組小学校設置の単位となった新たな町組(番組)を起源とする地域単位。明治期から戦中までは単に小学校の通学区域というだけでなく、小学校運営・行政機能の一部を担うものであった。

戦後の学制改革で一部の小学校が新制中学校になったことや近年の学校統廃合などにより小学校の通学区域と一致しなくなったものもあるが、現在でも自治連合会、体育振興会や社会福祉協議会自主防災組織などの単位として用いられている。京都市内では単に学区(がっく)といった場合、学校の通学区域ではなく、こうした地域行政・住民自治の地域単位である元学区(もとがっく)[注 1]のことを指す。

元学区(学区)は、番組小学校を起源とするものだけでなく、戦前の公同組合や戦中の町内会連合会の区域、高度成長期において新たに設置された小学校区を単位として設定されている場合もある。
元学区の成立の経緯

元学区(学区)は、明治時代の番組制度に起源を持つ京都の住民自治の単位。

京都の地域自治の最小単位である町(ちょう)が集まった町組(ちょうぐみ)は、戦国時代[注 2]にさかのぼることができる。その後、江戸時代にかけて町域が拡大に合わせ編成が進み、寛永年間頃でおおよそ完了した。当時の町組は、中心となる親町(あるいは古町)と新たに加わった枝町・新町に区分され、町組の中でもいくつかの小組があるなど複雑な構造・分布となっていた[1]

もともとは町組に雇用され事務を請け負っていた町代が権限を増大していく中、町組側が町代の専横を訴えた、文化文政年間の「町代改義一件」により、町代の権限は大幅に縮小され、町組側が大仲という惣町レベルでの自治組織を結成する大きな契機となり[2]、上京・下京には上下京三役・町組・町の自治体制が置かれた。
番組

この江戸時代の町組を、1868年慶応4年)に京都府が改正を行った(第一次町組改正)。親町(あるいは古町)・枝町・新町の区別を廃し、またそれまでの町組では、それぞれのがどの組に属しても良かったが、地理的なまとまりを持つものとなるよう組み替えられた。改正後の町組(番組)は、地域行政や警察消防機能を持つものとなり、同年(明治元年)に町会所に併設する形で小学校の設立が決定された。京都府は、翌1869年(明治2年)に再度の改正(第二次町組改正)を行い、上京33組・下京32組(同年に上京・下京それぞれ33組)に組み換え、同年この番組をもとに64の番組小学校が設立された[3]。この町組改正を経て、上・下京の総代を大年寄、各組は中年寄・添年寄、各町は町年寄と呼ぶことになった。

1871年(明治4年)に制定された戸籍法は、戸籍を扱う単位としての地方行政組織「戸籍区」を設置し、戸籍区にはそれぞれ戸長を置くことを定めた。京都では、1872年(明治5年)に戸籍制度を導入するにあたり、町を単位として各町に戸長を置いた。このとき「番組」は「区」(上京(下京)○区)に改められ、その区には中年寄・添年寄を改め区長・副区長、上京・下京にはそれぞれ大年寄を改め総区長が置かれることになった。この頃行われた地租改正により、全国の土地に地番が振られたが、京都市の中心部では区ごとの付番となった[4]

1874年(明治7年)には、戸長の管轄範囲が200戸と見直されたのにともない、いくつかの町をまとめて1人の戸長を置くように改められた。それによって町の代表者は町総代と呼ばれるようになるが、その設置はあくまで町の任意によるものだった。

1879年(明治12年)に郡区町村編制法が制定されると、区を組(上京(下京)○組)と改称し、各組ごとに戸長を置くことになった。また同年から戸長役場が設置されたが、京都では小学校に戸長役場を併設し、組が行政と教育の両方の単位となる体制が取られることになった。(なお、このとき上京区・下京区の両区役所が設置されている。)戸長役場の設置に伴い、役場の運営等の行政経費について、組内の町の代表者による連合町会が設置され、審議されるようになった。

しかし、1886年(明治19年)11月には各組に置かれていた戸長役場は、上京区・下京区それぞれ10ずつに統合され、1889年(明治22年)には市制施行とともに全廃され、行政機能は区役所にまとめられることになった。こうして、上京・下京区に置かれた区役所が、直接住民と接することになったが、区役所の管轄範囲は広く、ますます地域行政は町総代に依存することになった。

一方、多くの公務は府や市が行い、予算は府会、市会の審議事項となるなか、各組(連合町会)に残されたのは尋常小学校に関する教育費の決定権のみとなった。
学区
第二次世界大戦前・戦中の学区・連合公同組合・町内会連合会

1892年(明治25年)7月に「区会条例」が公布される[注 3]。この区会は小学校の学区単位で設置されたものであり、「学区会」とも呼ばれた。学区会では、学区の財政の意志決定が行われた。学区の運営は、学区有財産を基本に、学区内から学区税も財源とした。また、校舎建て替えなどにおいては、起債も認められた。このように学校運営に特化することになった連合町会は、学区会へと改組され、区会条例に基づき運営されることになった。

このとき、「組」は「学区」(上京(下京)第○学区)となった。小学校名は当初番組の番号がそのまま付けられていたが、やがて固有の名を持つようになった。名称は、論語にちなんだ「立誠」、豊臣秀吉の「梅屋」など、中国古典や地域の歴史に基づくものが多いのが特徴である。1929年(昭和4年)には学区を「成逸学区」のように学校名で呼ぶようになった。

1897年(明治30年)、京都市会[注 4]は公同組合の設置を奨励することとした。町を単位として公同組合を設置し、各学区には各公同組合の代表者である公同組長により構成される連合公同組合が置かれた。公同組合は、これまで町や学区が任意で行ってきたものについて公的な位置づけを明確に付与したということができた。

一方、学区により教育費を負担する制度は、学区間での経済的な豊かさによって、教育施設の充実等の面で差を生じることになり、その廃止を求める声が出てくることになる。これは周辺地域の合併の時にも問題となったが、学区という単位が公同組合など地域活動の単位となっていることもあり、市は教員給与を市から統一して支弁することや、学区への補助金制度などによって地域格差を是正しつつ学区を廃止せず残置した。

戦前の学区は、明治25年の発足以降、市域の拡大時(周辺市町村の京都市への編入時)に新設されたが、それ以外の新設や、また昭和4年の小学校名への名称変更以外は名称が変更されることはなかった。すなわち、小学校の新設や校名変更は、学区の分割や名称が変更されるということを意味せず、1つの学区の中に複数の小学校が含まれる学区も存在していた[6][注 5]


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