京成電鉄のダイヤ改正
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京成電鉄のダイヤ改正(けいせいでんてつのダイヤかいせい)では、京成電鉄の鉄道線・軌道線における歴代のダイヤ改正に付いて記述する。

系列会社(京成グループ)である北総鉄道新京成電鉄のダイヤ改正や、京成電鉄と一体的に運行されている芝山鉄道のダイヤ改正も一部記述し、その他の乗り入れ先である都営地下鉄浅草線京浜急行電鉄についても、京成電鉄のダイヤ改正に関連するものに限り一部記述する。また、本項では廃止された千葉急行電鉄のダイヤ改正についてもごく簡潔ながら記述している。

本項では主に1960年12月改正および修正以降の記述とする。改正日が不詳の場合はXとして記述する。また、改正自体を実施したかどうか不明、及び特筆される事柄のない改正および修正の場合は記述を割愛した。

ダイヤ改正の直前に「京成時刻表」(旧:京成電車時刻表)が京成線各駅の売店などで発売される。同誌はダイヤ改正だけでなく、ダイヤ修正や運賃改正の直前にも発売されることがある。1981年10月1日ダイヤ改正分が発刊第1号である。
1950年代
1953年5月28日改正

上野公園駅を
京成上野に改称。

開運号が1600形に車種変更される。

1955年9月1日改正

京成上野 - 京成成田間の通し運転の普通を一部を除き準急(一部通勤準急)に変更した事による準急の大増発。

準急は延べ4本から5本に、通勤準急は延べ18本から約3倍の56本となった。


1956年3月20日改正

八千代台駅開業による改正。

1960年代
1960年12月1日改正

本改正では、都営浅草線への乗り入れ開始による理由で実施された改正である。

押上駅地下化(前日11月30日実施)および都営浅草線(当初12月1日の予定を変更の上で12月4日押上駅14時35分発浅草橋行より営業開始)乗り入れによるダイヤ改正。

当時のダイヤでは浅草橋駅 - 東中山駅が乗り入れ区間であり、浅草橋駅 - 押上駅、浅草橋駅 - 青砥駅、浅草橋駅 - 東中山駅の列車が昼間時は浅草線内では3列車併せて6分間隔で運行されていた。

午前4時18分押上発の上り電車から営業運転の予定だったが、浅草駅の駅舎突貫工事が遅れたため運転延期となった。浅草橋、押上両駅につめかけた170余人の鉄道マニアや付近の人たちが怒る一幕もあった。午後2時43分に浅草橋発押上行きの第1号電車が出た[1]


1963年2月28日改正

都営浅草線
人形町駅 - 東銀座駅間開業(2月28日)。

京成佐倉 - 押上間で通勤準急を4本設定。

1963年11月22日改正[2]

都営浅草線東銀座駅 - 新橋駅間開業(12月12日)。24両を新造して輸送力を増強する[3]

快速列車を廃止し、急行と準急を増発した。

通勤準急を1本増発し、5本運転となる(ただし増発分の1本は京成大和田始発)[要出典]。

準急以上の本数は以下の通りである。

不定期特急上下それぞれ3本

定期急行上り20本、下り19本

不定期急行上下それぞれ4本

定期普通準急上り26本、下り20本

通勤準急上り11本、下り20本となる。


急行の停車駅を日暮里、町屋、堀切菖蒲園、青砥、京成高砂、市川真間、京成八幡、東中山、京成船橋、京成津田沼、京成津田沼から京成大和田までの各駅、京成佐倉とした。

準急停車駅を急行停車駅と志津、京成臼井、大佐倉、京成酒々井、宗吾参道とした。

午前通勤時に京成佐倉 - 押上間の通勤準急を2本増発し、5本運転となる[3]

青砥、京成金町 - 京成上野間の普通を上下3本ずつ増発する[3]

1964年10月1日改正

改正直前より使用開始されていた
3200形の運用が本格的に開始される。

都営浅草線新橋 - 大門間開業。

京成佐倉 - 大門間に通勤準急を直通させ、日本の地下鉄路線へ初めて優等列車の直通を行う。

改正当時、運転士を離れて当時上野にあった本社の運輸部運転課に在籍していた藤井浩二によれば、通勤準急の都営地下鉄1号線への乗り入れにあたっては、押上止まりの通勤準急から都営浅草線に乗り換える乗客の流動、並びに通勤準急到着時の押上駅プラットホームの混雑状況を東京都交通局高速電車部運転課[注釈 1]と藤井を含めた自社の運輸部運転課との共同で視察の上、現地でそれを視察した東京都交通局側の「これは、やはり(通勤)準急電車の乗り入れを認めた方が良い」との理解を得て実現したものである[4]


1965年12月1日改正

本改正では以下の3事例が実施された。
通勤急行が都営浅草線に乗り入れ開始(京成佐倉 - 大門間)

大手私鉄で実質初めての優等列車2本続行ダイヤを実施(一部事業者の一部区間で実施されていたが本格実施は京成が最初)

普通列車の速度をA速度とB速度に分離(B速度は京成の地下鉄直通対応および東京都交通局、京急電鉄所属車両に適用。後にB速度に統一)。

このうちの2については当時の設備面での2つの制約(1つはこの当時、小岩 - 津田沼間の約16kmの間での待避駅が東中山駅のみであったこと、もう1つは1965年当時はほぼ全駅ホームの有効長が18m車4連までしか無く、長編成の運転が事実上不可能であったこと)によるものである[注釈 2]。これらの制約を4連の優等列車を2本続行(2本の内1本は通勤急行、1本は通勤準急)させることで解決を図った[注釈 3]。3の普通のB速度(A速度より速いダイヤ)も合わせて設定したことによって、優等列車2本続行ダイヤも余裕を持った設定にすることが出来た。
1966年11月1日改正

通勤急行を
京成成田駅からの直通に変更。

京成本線はこのうちの京成上野 - 青砥間を除き都営浅草線との直通区間となる。


1968年

1968年は乗り入れ先の延長や成田山御開帳1030年と言うこともあり年間に3回もダイヤ改正が実施された年である。1年に3回以上の改正は同社ではこの年と2010年の2回。
5月1日改正

京成線に
勝田台駅開業(大和田 - 志津間)。

千葉線急行を設定。

停車駅は津田沼駅・稲毛駅・千葉駅(現在の千葉中央駅)のみ。


不定期急行の廃止と不定期特急への統一。

京成初の6連運転の開始(特急「開運」では1967年12月31日より実施済み)。この改正までは大手私鉄で最後まで最大4連であった(西日本鉄道が1962年に5連運転を開始して以降は最大4連運転までしか出来ない大手私鉄は京成のみであった)。

成田 - 都営浅草線・大門間に朝夕時間帯に各10本「通勤特急」を新設。同区間の所要時間は92分から85分に短縮。都内の停車駅は、小岩、高砂、青砥、立石、曳舟[5]

6月15日改正

都営浅草線大門 -
泉岳寺間開業(6月21日)。同線に急行の直通を開始する。同線経由京急線への直通運転開始。

千葉線の急行を京成線と直通の上快速に改称。

停車駅に幕張駅みどり台駅が追加される。


11月10日改正

都営浅草線泉岳寺駅 -
西馬込駅間開業(11月15日)。

準急 / 通勤準急の廃止で急行 / 通勤急行に吸収。

千葉線快速の停車駅に国鉄千葉駅前駅が追加される。


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