京城府
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「京城」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「京城 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

京城府1925年から1945年までの京城府の徽章
位置
地図

京城府庁舎(現在のソウル図書館(旧 ソウル特別市庁)
各種表記
ハングル:???
漢字:京城府
日本語読み仮名:けいじょうふ
片仮名転写:キョンソンブ
英語表記:Keij? /Keizyo/ Ky?ngs?ng/ Gyeongseong
統計
行政
国: 大日本帝国
下位行政区画:8区
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1930年頃の京城地図日本統治時代の南大門通り

京城府(けいじょうふ、キョンソンブ、: ???)は、大韓帝国(旧・李氏朝鮮)の漢城府に引き継いで置かれた日本領朝鮮の行政区域。現在のソウル特別市にあたる。なお「京城市」は誤りである(概説参照)。
概説

1105年高麗粛宗の代に南京の建設を始めたのが始まりで、孫の仁宗の代に王都の一つとされ、漢陽府と称した。高麗を滅ぼした李氏朝鮮は、開城漢城の二都体制を継承し、漢城府と名前を改めた。以来、およそ500年にわたって首都であり、その長として判府事を置いた。これは睿宗の代に判尹と改称され、さらに建陽元年(1896年)に府尹と改称された。

1910年明治43年)の韓国併合後、同年9月30日に施行された朝鮮総督府地方官官制に基づき京城府に改称され、京畿道の下に置かれた。他方でその長は府尹とされ、これは改称されなかった。

また朝鮮総督府と京畿道庁がここに置かれ、漢城府の府域がそのまま引き継がれた。

朝鮮半島においての「」は内地日本)の「」に相当する。よってしばしば誤って呼ばれるが、「京城市」という市は歴史上存在しない。府尹が市長に相当する。また、「京城」は王城・皇城と同じ意味の漢語であって、朝鮮においては古くから漢城を指して使われた一般名詞の一つであった。1945年(昭和20年)8月15日の日本敗戦(光復)後もしばらくは「京城」の名称が使われた。連合軍軍政期1946年(昭和21年)10月18日京畿道の管轄から離れて「ソウル自由市」が設定され、大韓民国独立した1948年(昭和23年)には首都「ソウル特別市」が誕生し、現在に至っている。

日本では戦後十数年間、「京城」という旧称が使われてきた[1]黒田勝弘は日本で「ソウル」の呼称が定着したのは「1960年代以降ではなかったか」とし、その背景に韓国からの強い要請(とりわけ日韓基本条約締結後)があったという見解を示している[2] 京城府
行政区画

1911年(明治44年)に5部8面制を実施、城内は漢城府の五部(東部・南部・西部・北部・中部)を引き継ぎ、城外は龍山面・西江面・崇仁面・豆毛面・仁昌面・恩平面・延禧面・漢芝面の8面とした。

1914年(大正3年)に龍山面・崇仁面・仁昌面・漢芝面・豆毛面の各面の一部を京城府に編入した。他の城外地域が高陽郡に編入。

同年4月1日、5部8面制と漢城府以来の坊・契・洞制度を廃止し、京城府直轄の行政区画を186とする大規模な改編を行った。

同年9月27日、東部・西部・北部・龍山の4つの出張所を設置した。しかし、一年余り後の1915年(大正4年)6月17日、龍山出張所のみを残して廃止された。

1936年(昭和11年)、京城府の行政区画の名称が既存の「?洞」から「?町」に改称され、都市化の進行に伴い高陽郡龍江面・延禧面・崇仁面の各一部、始興郡北面・永登浦邑・東面のそれぞれ一部、金浦郡陽東面の一部を編入して府域を約4倍(133.94平方キロメートル)に拡大した。


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