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京 唄子
本名鵜島 ウタ子(うじま うたこ)
生年月日 (1927-07-12) 1927年7月12日
没年月日 (2017-04-06) 2017年4月6日(89歳没)
出生地 日本・京都府京都市上京区西陣
死没地 日本・大阪府大阪市
職業女優・漫才師
活動期間1945年 - 2017年
配偶者あり(離婚歴あり)
事務所さち子プロ
主な作品
テレビドラマ
『てなもんや三度笠』
『ひとりじゃないの』バラエティー番組など
『お笑いスター誕生!!』
受賞
国際芸術文化賞
上方演芸の殿堂入り(2007年)
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京 唄子(きょう うたこ、1927年〈昭和2年〉7月12日[1] - 2017年〈平成29年〉4月6日[2])は、日本の女優・漫才師である。本名は、鵜島ウタ子(うじま うたこ)[1]。
京都府京都市上京区西陣出身[1]。さち子プロに所属していた。 1945年、宮城千賀子の劇団「なでしこ劇団」に入り、京町唄子の名で舞台女優となる[3]。後、不二洋子、瀬川信子などの一座を転々とする。俳優の浪花五郎と結婚するが5年で離婚。その後、1956年に「瀬川信子一座」で座付き作家を務めた鳳啓助と出逢い、漫才コンビ「唄子・啓助」を結成して漫才を始める[4]。後、鳳と結婚するが1965年に離婚[3]。3度目の結婚は三田マサル(啓助の実の弟・志織満助の元相方)。4人目の結婚相手が死去時の夫となった。 1970年には唄啓劇団を旗揚げ[5]、1980年代前半には一時、吉本興業と提携していたが、1987年、当時の所属事務所倒産に伴い解散。同年、京唄子劇団を設立[5]。 1969年から1985年まで16年間続いたフジテレビのトーク番組『唄子・啓助のおもろい夫婦』で啓助とともに司会を務め[3]、啓助との丁々発止の言葉のやり取りが番組の人気となり名物となった[4]。このほか、日本テレビの芸人オーディション番組『お笑いスター誕生!!』でも啓助とともにレギュラー審査員の一員として出演し、辛口のコメントで出場芸人の芸を評価した。 1993年からは『渡る世間は鬼ばかり』で、岡倉家の五女・長子の姑である本間(神林)常子役として出演した[5]。普段から清爽なスーツ姿や帽子などのおしゃれなファッションが有名で、渡鬼出演時の衣装のほとんどが自前の衣装だとインタビューで語っている[要出典]。 トレードマークは大きな口(漫才のネタの定番でもあった)[3]と大きな帽子だった(その印象から晩年までミヤコ蝶々に間違えられることがあった)。 大相撲の大阪場所を度々観に来ており、よくテレビに映っていた[要出典]。 1994年、鳳啓助が死去した際には「一緒にいたときは食べられないこともあったけど、思い出すのはいいことばかり。元気でいてくれたら良かったのに。やっぱり早かった」とコメントし「もう一切、漫才はやりません」と漫才の封印を誓った[6]。 2008年3月20日、上方演芸資料館が選出する「上方演芸の殿堂入り」入り表彰を「唄子・啓助」で受けた[4][7]。これに対して唄子は「表彰は身に余る光栄。亡くなった啓助さんも喜んではると思います」と語った。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}上沼恵美子とは特に親交が深く、大阪や東京での番組出演が多くなり、神戸のサンテレビで上沼自らがメイン司会を務めていた『ズバリ!悩みおまかせ』の出演が時間的に厳しくなった為、信頼を寄せる京唄子に後継番組として『京唄子の何でも言うて!』として司会をバトンタッチした。『快傑えみちゃんねる』(関西テレビ)にも上沼と馬が合うからかたびたびゲストとして出演していた。上沼が結婚引退して一年後の電撃復帰時には当時のマスコミや業界内等でもバッシングの嵐を受けたりといろいろ叩かれたが『唄子師匠にはすごく助けていただきとても感謝している。』などと度々インタビューなどでも語っている。逝去後、上沼がインタビューに応じ『唄子師匠が亡くなったのがあまりにもショックで未だに自分の中では信じられず、あれだけ可愛がっていただいたのにも関わらずにどうしても最後のお別れを言いに(告別式に参列することが)出かけられなかった。今ではそれが心残りです。』などと語っている。渡鬼で長年にわたって共演した藤田朋子や植草克秀もマスコミからの追悼インタビューに応じている。[要出典]
来歴・人物