この項目では、漢代の行政区画について説明しています。古代中国の官職名については「京兆尹」をご覧ください。
京兆尹(けいちょういん)は、中国の前漢から後漢時代に置かれた行政区画である。他地方の郡に相当する。現在の中華人民共和国陝西省の一部を占める。京兆尹は当該行政区画を監督する官名でもある。 前漢が成立すると高祖元年(前206年)に塞国を置いた。翌年渭南郡と改称したが、高祖9年(前198年)に再び内史の管轄とされた。建元6年(前135年)に内史が左右に分割された際に右内史の管轄とされ、太初元年(前104年)に京兆尹と改称された[1]。前漢の都城である長安付近の県を管轄し、隣接する左馮翊・右扶風とともに三輔と呼ばれて重視された。 新の天鳳2年(15年)4月、京兆尹を含めた三輔が廃止になり、三輔の地は1郡が10県を擁する6郡に分けられた[2]。23年に新が滅亡すると、この変更は取り消された。 後漢にも変更はなかったが、都城が洛陽に置かれたため、重要性は下がった。さらに、三国時代の魏になると京兆郡と改められた。 元始元年(1年)時点では県数12、戸数195,702、人口682,468(『漢書』地理志[1])、永和5年(140年)時点では県数10、戸数208,486、人口1,010,827(『後漢書』地理志)であった。 前漢
歴史
京兆尹の管轄県変遷
12県新朝
12県後漢
10県
長安県常安県長安県
新豊県
船司空県船利県-
藍田県
鄭県
?陽県→覇陵県水章県覇陵県
杜県→杜陵県饒安県杜陵県
下?県
南陵県-
奉明県-
(左馮翊管轄)長陵県
(左馮翊管轄)陽陵県
胡県→湖県(弘農郡管轄)
華陰県華壇県(弘農郡管轄)
(弘農郡管轄)商県
司隷校尉部
京兆尹(渭南郡)
左馮翊(河上郡)
右扶風(中地郡)
河南郡
河東郡
河内郡
弘農郡
豫州刺史部
潁川郡
汝南郡
梁国(?郡)
沛郡
?州刺史部
淮陽国(淮陽郡)
陳留郡(済川郡)
定陶国(済陰郡)
東郡
山陽郡(昌邑国)
東平国
泰山郡
城陽国
青州刺史部
斉郡
済南郡(博陽郡)
済北国
平原郡
千乗郡
?川国
高密国(膠西国)
北海郡
膠東国
東?郡
徐州刺史部
東海郡
楚国(彭城郡)
魯国(薛郡)
琅邪郡
広陵国(広陵郡)
臨淮郡
泗水郡(沛郡)
冀州刺史部
魏郡
趙国
広平国
鉅鹿郡
清河郡
信都国(広川国)
河間国
真定国
常山郡(恒山郡)
中山国
幽州刺史部
広陽郡(燕国)
?郡
勃海郡
上谷郡
漁陽郡
右北平郡
遼西郡
遼東郡
蒼海郡
楽浪郡
真番郡
臨屯郡
玄菟郡
并州刺史部
太原郡
代郡
上党郡
雲中郡
雁門郡
定襄郡
朔方刺史部
朔方郡
五原郡
西河郡
上郡
北地郡
涼州刺史部