京七宝
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高原駒次郎の作 (1880-1889)

京七宝(きょうしっぽう)とは、京都の神社仏閣などに残る七宝細工や京都で作られた七宝細工のこと。

以下の用例がある。

古来(明治期以前)に京都で作られた七宝遺例の総称。本項で記述

並河靖之によって確立された七宝の技法および意匠(京都七宝)

京都府知事指定伝統工芸品(京七宝協同組合の商標)

ここでは、古来の遺例の総称としての京七宝について記載する。
歴史桂離宮 松琴亭

京都七宝(京七宝)が作られた痕跡は、桃山期から江戸時代初期以降に数多く見られるようになる。たとえば、伊予松山(愛媛県)より堀川油小路に移り住んだ金工嘉長は、小堀遠州により登用されて桂離宮曼殊院門跡などの引手や釘隠しを手がけたといわれている[1][2]。遠州は、天下の三大茶室の一つであり国宝にもなっている大徳寺龍光院密庵席(みったんせき)、重要文化財となっている孤篷庵忘筌席などに見られる草庵書院を融合した茶室の様式を取り入れた。書院造りのもつ固さ厳しさは、低い天井や、釘隠七宝を使うなどしてやわらいだ[3]。また、戸袋の引手などにも七宝を取り入れ棚まわりを装飾した。この頃の七宝装飾として、桂離宮の新御殿の桂棚の引手や、狩野探幽が水墨画を描いた松琴亭の二の間戸袋を飾る有線七宝の巻貝形七宝引手[4]がよく知られている[1]

次に、秀吉 - 家康お抱えの七宝師であった平田彦四朗道仁が、独特の透明感のある釉薬を用いて、武家や公家屋敷の釘隠、刀のなど身の回りの品の装飾を手がけている。道仁の一派は、その活躍の場を京都から駿府および江戸へと順次移して、その後大正時代まで11代続いている。道仁に関する記録が連綿と残っている一方で、嘉長に関する記録は限られており、その生涯は明らかではない。しかし、修学院離宮西本願寺などに今も残る飾金具を見れば、この頃の御殿神社仏閣の造営のため、嘉長や道仁のような金工が京都の内外から集められたのは間違いないことであろう[* 1]

京都で七宝器が使われた記録は、さらに室町時代以前まで遡る。勘合貿易にてより輸入した七宝器は、七寶瑠璃(しっぽうるり)と記された(詳しくは七寶瑠璃を参照)。幕府の唐物目ききであった能阿弥相阿弥等は七宝器を座敷飾りに推挙しており、東山殿御会所(銀閣寺の前身)の座敷飾などで七宝が使われた[* 2]。しかし、特に戦国時代侘びを尊んだ利休の茶の湯の隆盛の下では、華麗な色彩が身上の七宝器は茶人の受け入れるところではなかったという。豊かな色彩や装飾性が一般に広く受け入れられるようになったのは、琳派の時代を迎えてからのことであった[5]。日本伝世の元・明代の七宝器は数が少ないものの、細川幽斎(1534年 - 1610年)所要と伝える七宝縄手香炉や、国内を探せば久能山東照宮にある徳川家康の遺愛品と伝える七宝燭台などが現在も残っている。珍奇な唐物は名物として重宝された[6]七宝鍔(18世紀 - 19世紀頃, 銅および真鍮)象嵌七宝の香炉(ジョージウォルターヴィンセントスミス美術館)

江戸中期に入ると基準作となるような七宝遺例は極めて少なくなるが、角屋の「緞子の間」、「青貝の間」などの七宝装飾が今日も見ることができる。たとえば、上述の青貝の間には真鍮植線により、白、緑、青、黄、黒の釉薬を施した銅製花文入籠目形の七宝引手が岸駒 (1756–1839) の描いたに取り付けられている[7]。この頃には、象嵌七宝に加えて、江戸初期にはまだ少なかった有線七宝も次第に多くなり、多彩な七宝が作られるようになる。しかし、この頃の七宝器は、銘のない水滴香炉、引手、釘隠など、建物から容易に取り外し持ち出すことができるものが多く、製作年を確認できる遺例はほとんど無くなっていく。この頃、京都で七宝は『ビードロ座』『七寶流し』『七寶瑠璃』などと呼ばれていた[8]。あるいは、平田彦四朗道仁の一門の作は『平田七宝』と呼ばれており、五条坂の金工、高槻某の手がけた七宝は高槻七宝と呼ばれるなど、七宝師一門の名でも呼ばれた[* 3]。また、この頃には、江戸初期に造営された寺社仏閣、御殿、茶室の中には、経年に伴う修復、火災による消失からの再建、移築や改築などが生じている。たとえば、大徳寺では、寛政五年(1793年)の火災で孤篷庵が全焼しており、同年遠州に私淑する松江藩主松平治郷(不昧)が古図に基づき再建している[9]密庵席についても、寛永十八年(1641年)頃までは縁が西から南へ短折りに廻っていたが、後年書院と接合され南側の縁はなくなり、書院から直接入れるよう改築されている[10]。しかし、「遠州好み」として知られる様式は歴然とあり、遠州との関係を裏付ける史料が明らかではないとされている桂離宮の建築についても、たとえ遠州が直接手を下していなくとも、その美学が守られていることは、はっきりしていると考えられている[11]ワグネル博士顕彰碑、京都市左京区岡崎公園

明治に入ると、東京奠都や武士の時代の終焉により、武家屋敷などの装飾を手がけてきた古来の七宝家は大きな打撃を受ける。京都府の調査によれば、江戸時代から7代続いたといわれる高槻七宝は明治元年(1868年)の頃途絶えたと記録されている[12][13]。一方で、国は外貨獲得の手段として工芸品の製造を奨励、七宝は輸出産業として尾張をはじめ日本各地の生産地で急速に発展する。京都においては、官庁による指導の元、新興の事業者のみならず伝統ある陶工金工も独自の技法を考案し生産を手掛けた。具体的には、1870年(明治3年)12月に開所した京都舎密局にて石鹸氷砂糖ガラス・漂泊粉を始めとするさまざまな工業製品の製造指導や薬物検定が行われた。京都府がまとめた京都七宝産額累年比較表によれば、明治5年より、金工の品とは別途、この新たな輸出産業の産額が計上されており、明治7年からは陶器七宝の製造も記録されている[12]。舎密局自体は京都府の管轄であったが、1875年(明治8年)2月には文部省管轄の「京都司薬場」が併設され、オランダ人教師ヘールツ(ゲールツ)による理化学の講義が翌年8月の廃止まで行われた。そして、後任の外国人教師として招いたドイツ人科学者ゴットフリード・ワグネルが透明釉薬を開発して、それまでとは一線を画す鮮やかな色彩が実現された[14]ワグネルは、内国勧業博の全般を指導しており、1877年の第一回報告書の中で、愛知の品と比べ京都府の品の質の悪さを指摘している。さらに、京都府以外の品についても、フランス博覧会に出品すれば評判を落とすことになると厳しく評した[15]。ワグネルが七宝に深く関わるようになったのは、ドイツ人起業家により築地居留地に設立された貿易会社アーレンス商会に招かれた1876年(明治9年)頃以降であり、アーレンス社の共同経営者であったドイツ領事ミヒャエル・マルティン・ベアの委託を受けて1877年から1年間、七宝の研究を行ったといわれている。


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