享保の大飢饉
仏心寺(佐賀市大財)の享保の飢饉供養塔「本州庶民餓死累葬之墓」
国 日本
地域伊勢国・近江国以西の西日本各地(特に西海道の被害が深刻)[1]
期間1732年(享保17年)、徳川吉宗治世、江戸時代
飢餓死者数1万2,000人(飢民は幕領内67万人、諸藩は197万人。死畜は14,000頭)[1]
総死者数1万2,000人
主要因
享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)は、江戸時代中期に起こった飢饉である。江戸四大飢饉の一つに数えられる。 1731年(享保16年)末より天候が悪く、年が明けた1732年(享保17年)には、5月、6月まで雨と低温がつづくなど悪天候が続いた[1]。1765年(明和5年)に成立した福岡の地誌『石城志』は、1732年の2月から雨が続き、麦が半分腐って熟さないまま、5月まで雨が降り続いたと記録している[2]。 閏5月にはコメが実り始めて農民を喜ばせたが、6月半ばになると害虫が「田地の水に浮いて川に流れ出るに、水の色も変ずるほど也」と『石城志』が記録するほど大発生した[2]。梅雨からの長雨が約2か月間にも及び、冷夏をもたらした[3]上に、ウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらし、蝗害として記録された[1][3]。 冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地が凶作に見舞われ、とりわけ西海道(九州地方)の被害が深刻であり[1]、瀬戸内海沿岸一帯もまた甚大な被害を受けた[3]。 被害は西日本諸藩のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫はわずか27パーセント弱の63万石程度であった。餓死者は1万2000人にも達した[1][注釈 1]。また、幕領内67万人、諸藩は197万人、あわせて250万人強の人々が飢餓に苦しんだといわれる[1]。江戸・大坂・京都・伏見・奈良・大津・長崎などの各都市に流入した窮乏民も多かった[1]。福岡藩領内では、1731年の冬から1732年の夏にかけて疫病が流行したこともあり[2]、施粥などを求めて福岡城下に流入した農民が多数行き倒れ、約10万人が餓死した[5]。
概要
対策・影響