交響詩
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、管弦楽曲のジャンルの一つについて説明しています。さだまさし1995年に発表したライブ・アルバムについては「交響詩 (さだまさしのアルバム)」をご覧ください。

交響曲」とは異なります。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

交響詩(こうきょうし)は、管弦楽によって演奏される標題音楽のうち、作曲家によって交響詩(:Sinfonische Dichtung、:symphonic poem)と名付けられたものを言う。音詩(独:Tondichtung 英:tone poem)や交響幻想曲(英:symphonic fantasy)などと名付けられた楽曲も、交響詩として扱われることが多い。楽曲の形式は全く自由であり、原則として単一楽章で切れ目なく演奏されるが、中には多楽章制の交響詩も存在する。また、標題つきの交響曲の一部には、交響詩と名付けても差し支えないようなものがある。文学的、絵画的な内容と結びつけられることが多く、ロマン派を特徴づける管弦楽曲の形態である。
歴史
前史

古典派以前のオペラ劇付随音楽序曲に、交響詩の起源を見ることができる。これらの序曲は普通、劇全体の粗筋や雰囲気をあらかじめまとめて伝えるように作られる。この意味で序曲はストーリー性があり、一種の標題音楽となっている。後に、序曲が本体から独立して、単独で演奏会などで演奏されるようになる。ここから、序曲だけを独立して作曲することが19世紀に起こった。このような序曲を演奏会用序曲と呼ぶ。

一方、古典派の交響曲は、タイトルを持たないかニックネーム的なタイトルしか持たない絶対音楽として書かれたものがほとんどであったが、ベルリオーズは『幻想交響曲』(1830年)においてイデー・フィクス(固定楽想)の手法や色彩的な管弦楽法を用い、標題交響曲を成立させた。また、ロベルト・シューマンは、ピアノ曲『幻想小曲集』作品12(1837年)や『クライスレリアーナ』(1838年)で文学的な標題を楽曲に導入した。

セザール・フランクは、1847年頃に『人、山の上で聞きしこと』を作曲している。これはフランツ・リストより先に完成された史上初の交響詩といえる。ただし、一般的には交響詩の発明者はリストであるとみなされることが多い。
リストによる交響詩の創始

19世紀中頃、フランツ・リストはこれらの動きをさらに推し進めて、音楽外の詩的あるいは絵画的な内容を表現する管弦楽曲のジャンルとして、新たに「交響詩」(: Sinfonische Dichtung )の名を付けた。これが交響詩の始まりである。リストは、フランクの上記同名作品と同じくヴィクトル・ユゴーの詩集「秋の葉」による『人、山の上で聞きしこと』(1849年)を第1作として、ゲーテによる『タッソー、悲劇と勝利』、ラマルティーヌによる『前奏曲』、ユゴーによる『マゼッパ』など、1882年までに13曲(そのうち12曲は1857年までに集中して作曲されている)の交響詩を残した。ほぼ同じ頃、リストと親交があった若き日のベドルジハ・スメタナは『リチャード三世』(1858年)、『ヴァレンシュタインの陣営』(1859年)、『ハーコン・ヤール』(1862年)の3曲の交響詩を作曲した。
フランス

リストの影響は最初、ドイツ圏よりもフランス、ロシアに色濃く現れた。フランスにおいては、カミーユ・サン=サーンスが、ギリシャ神話による『オンファールの糸車』(1871年)、『ファエトン』(1873年)、『ヘラクレスの青年時代』、アンリ・カザリス(英語版)の詩による『死の舞踏』(1874年)の4曲の交響詩を作曲し、セザール・フランクシャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールの詩による『アイオリスの人々』(1876年)、18世紀ドイツの詩人ゴットフリート・アウグスト・ビュルガー(ドイツ語版)のバラードによる『呪われた狩人』(1882年)など5曲を作曲した。19世紀末にかけてのフランスでは、ヴァンサン・ダンディシラーによる3部作『ヴァレンシュタイン』(1875年 - 1879年)、古代メソポタミア神話による交響的変奏曲『イシュタル』(1896年)、ポール・デュカスがゲーテによる『魔法使いの弟子』(1897年)を作曲した。なお、1894年クロード・ドビュッシーが作曲した『牧神の午後への前奏曲』は、マラルメの詩に基づいている点で交響詩的であるが、内容の表現ではなく、印象や雰囲気を暗示する新しい標題音楽であった。
ロシア

ロシアでは、まずピョートル・チャイコフスキーダンテの『神曲』による幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』(1876年)を発表し、後にサン=サーンスに絶賛された。これよりやや遅れてアレクサンドル・ボロディンの『中央アジアの草原にて』(1880年)、ミリイ・バラキレフの『タマーラ』(1882年レールモントフの詩に基づく)が作曲され、いずれもリストに献呈された。この後のロシアではアレクサンドル・グラズノフの『ステンカ・ラージン』(1885年)、20世紀に入りアナトーリ・リャードフの『バーバ・ヤーガ』や『キキーモラ』(1904年、1909年)などの民族的主題による交響詩が作曲された。
リヒャルト・シュトラウスの交響詩

ドイツ圏ではリストの直系の作曲家としてヨアヒム・ラフが標題つきのものを含む11曲の交響曲を作曲したが、交響詩は残さなかった。リストの死(1886年)の後、リヒャルト・シュトラウスニコラウス・レーナウによる『ドン・ファン』(1888年)や、シェイクスピアによる『マクベス』(1890年)、ドイツ民話による『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(1895年)、ニーチェの哲学書による『ツァラトゥストラはこう語った』(1896年)、セルバンテスによる『ドン・キホーテ』(1897年)などを発表し、大規模な管弦楽を用いてリストの交響詩の概念を拡大した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef