交響曲第4番_(メンデルスゾーン)
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パーヴォ・ヤルヴィ指揮

アンドレス・オロスコ=エストラーダ指揮
以上演奏2本は何れもhr交響楽団の管弦楽、hr交響楽団公式YouTubeより。
Mendelssohn:Symphonie n°4 'Italienne' - チョン・ミョンフン指揮フランス放送フィルハーモニー管弦楽団による演奏。France Musique公式YouTube。
Mendelssohn:Symphony No.4, 'Italian' - ヤン・ヴィレム・デ・フリエンド指揮ネザーランド交響楽団(Het Orkest van het Oosten)による演奏。AVROTROS Klassiek公式YouTube。
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交響曲第4番 イ長調 作品90, MWV N 16 は、フェリックス・メンデルスゾーン1831年から1833年にかけて作曲した交響曲。『イタリア』の愛称で知られる。
概要

メンデルスゾーンの交響曲は全部で17曲におよぶが、はじめの全12曲ある『弦楽のための交響曲』は弦楽合奏用の習作的なものであり、その後の5曲が番号付き交響曲として数えられる。本作に付けられた「第4番」という通し番号は出版順であり、本作は全5曲の中では第1番第5番『宗教改革』に次いで実質3番目に完成された。本作の後の作曲順は、第2番『賛歌』第3番『スコットランド』となる。

イタリア旅行中に書き始められ、作曲開始当初メンデルスゾーン自身が家族の手紙に『交響曲「イタリア」』と説明していた[1]ことからその愛称で呼ばれる[注釈 1]この曲は、躍動的なリズム、叙情と熱狂、長調と短調の交錯による明暗の表出が特徴的で、メンデルスゾーンの交響曲の中でももっとも親しまれている。長調で始まり、同主短調で終わる、多楽章の大規模な作品である(ブラームスの『ピアノ三重奏曲第1番』とバーバーの『ヴァイオリン協奏曲』に他の例を認めることができる)。最終楽章にイタリアの舞曲であるサルタレッロが取り入れられているが、これ以外には具体的にイタリアの音楽を素材としてはおらず、標題音楽的な要素も認められない。
作曲の経緯

1830年10月から翌1831年4月にかけて、メンデルスゾーンはイタリアに旅行し、ローマでは謝肉祭教皇グレゴリウス16世の就任式などを目にしている。その間にこの曲の着想を得て、作曲に取りかかったことが彼の手紙などから分かっている。しかし「何としてもイタリア滞在中に書き上げようとしています」と家族に手紙でつづった意欲[1]とは裏腹に、旅行中には仕上がらず、一度は中断したものと考えられている。

1832年の11月、メンデルスゾーンはロンドンフィルハーモニック協会から交響曲、演奏会用序曲、声楽曲各1曲の作曲依頼を受けた。これを快諾した彼は手元に残っていた未完の交響曲2曲[注釈 2]のうち、このイタリアで書き始めた曲をフィルハーモニック協会に提出することを決め、1833年1月に作曲を再開して3月13日[2]に完成。演奏会用序曲『フィンガルの洞窟』と共にフィルハーモニック協会に提出した。メンデルスゾーン24歳のときである。
未完に終わった改訂

初演は1833年5月13日ロンドンにおいてメンデルスゾーン自身の指揮によって初演され、音楽雑誌にも高い評価を受けるなど好評で迎えられた[2]。ただメンデルスゾーンは、指揮者・演奏家として自作に触れる機会が多かったせいか自作への自己批判も厳しく、極めて短期間で作品を完成させても、出版に値する作品と自分で納得するまで何度も改訂を重ねるため相応の時間が経過しているといった例が少なくなかった。それはこの好評で迎えられた交響曲も例外ではなく、初演後しばらくして改訂することを決めて作業を始めた。

しかしメンデルスゾーンの研究者であるJ.M.クーパーらの研究家達によれば、メンデルスゾーンはこの曲の改訂を完成させることなく亡くなり、本人が封印しようとしていた1833年初演時に基づく形で指揮者・作曲家のユリウス・リーツが整理したものが出版・演奏され、多くの人に親しまれる結果になったとされる[3][4]

遺されている資料によれば、初演から出版までの経緯は以下のようになる。
初演の翌年である1834年6月、フィルハーモニック協会はイグナーツ・モシェレスの指揮でこの曲を再演した。メンデルスゾーンはモシェレスから再演をするという知らせを受けており、それをきっかけとしたのか改訂作業を始めた。この交響曲はフィルハーモニック協会に2年間の独占演奏権が与えられていた。そのためメンデルスゾーンの手元にスコアはなかったため、彼は姉のファニーなどに聞いたり自分の記憶を頼りにスコアを書いている。

1835年の2月までに第2?4楽章は改訂し終え、一般的にこの3つの楽章を「改訂版」もしくは改訂を始めた年である「1834年版」と称する。しかし第1楽章はメンデルスゾーンがモシェレスに改訂をしていることを知らせた手紙に「(第1楽章は)4小節目から全てやり直さないとならないが、その時間はない」と記す[5]など、大がかりな改訂が必要と考えていたようで、手付かずのままだった。

1837年の8月から9月のバーミンガム音楽祭のために訪英したメンデルスゾーンは、フィルハーモニック協会に改めて改訂の意向を伝えたものと推測されている。同年12月にモシェレスから「(演奏に使うので)改訂版を早く完成してくれ」との手紙が送られているからである。しかし当時ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者であり、私生活も結婚したばかりと公私ともに多忙なメンデルスゾーンはこの曲の改訂を進めることはできず、モシェレスが手紙で言及していた演奏会[6]では初演時と同じものが演奏された。

その後、1840年の秋から翌年春にかけてはしびれを切らした協会側の「第1稿を演奏するな、と言っておいて(改訂版を)送ってくれないのはどういうことだ」という抗議に対しメンデルスゾーンが「公式に約束した覚えはない」という手紙が送られるなどの険悪なやりとり(最終的に協会側がコミュニケーション不足だったと謝罪)があった記録が残っている。

1840年と1842年にメンデルスゾーンは演奏会のため渡英しているが、おそらくその際に協会から自筆スコアが彼の手元に戻ってきた。しかし交響曲第3番に本格的に着手した頃の1841年3月を最後に、メンデルスゾーンがこの曲の改訂を進める意欲を表明した記録は途絶えている。

1847年11月にメンデルスゾーンは急逝。彼を悼んだヴィクトリア女王の命で、フィルハーモニック協会は1848年3月にこの曲を再演した。ただし、その際に使われた手書きスコア(パート譜から再現したらしい)は現存しているが、メンデルスゾーンの自筆譜とは微妙に違っている[注釈 3]

1851年にメンデルスゾーン遺稿集の1作として、メンデルスゾーンの友人で彼の作品に精通していたユリウス・リーツが1833年版の自筆譜を整理・校訂[注釈 4]してブライトコプフ社から初めて出版。先のクーパーらは、上記の経緯からこの楽譜は初演時とほぼ同じものと結論付けている。リーツは亡くなる2年前の1875年に改めてメンデルスゾーン全集のために校訂しており、20世紀以降の校訂版でも多少の差異[注釈 4]こそあれ、基本的には全集版楽譜を踏襲している。


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