交響曲第3番_(マーラー)
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Mahler:3.Sinfonie
- アンドレス・オロスコ=エストラーダ指揮hr交響楽団による演奏。hr交響楽団公式YouTube。
Mahler:Symphony no 3 - ディーマ・スロボデニューク(Dima Slobodeniouk)指揮ガリシア交響楽団による演奏。ガリシア交響楽団公式YouTube。
Gustav Mahler:Symphony No.3 in D Minor - ヒュー・ウルフ指揮ニューイングランド音楽院フィルハーモニアによる演奏。ニューイングランド音楽院公式YouTube。
Mahler:Symphony No.3 - Kevin Noe指揮ミシガン州立大学交響楽団(MSU Symphony Orchestra)による演奏。ミシガン州立大学音楽学部公式YouTube。

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交響曲第3番ニ短調(こうきょうきょくだい3ばんニたんちょう)は、グスタフ・マーラー1895年から1896年にかけて作曲した交響曲。全6楽章からなり、第4楽章にアルト独唱、第5楽章にアルト独唱と児童合唱、女声合唱を導入している。演奏時間は約100分。マーラーの交響曲としても、また通常の演奏会で採り上げられる交響曲としても、最長の曲として、かつては「世界最長の交響曲」としてギネスブックに掲載されていた。

作曲時にマーラーは全曲及び各楽章ごとにも標題を付していたが、出版時にこれらをすべて削除している。交響曲全体の標題は、初期には「幸福な生活?夏の夜の夢」、その後「楽しい学問?夏の朝の夢」、「夏の真昼の夢」などと変遷している。各楽章に付けられていた標題(後述)も含めて、これらは作曲と平行して考えられていたものであり、音楽の内容と深く結びついている。したがって、演奏や録音の際の解説では作品理解の助けとして各楽章の標題が紹介されることが多く、交響曲の副題として「夏の交響曲」あるいは「夏の朝の夢」などとするものも一部にある。

もともと7楽章構成で構想されたが、最後の楽章は分離されて交響曲第4番の第4楽章となった。このため、第3交響曲の第5楽章と第4交響曲の第4楽章には同じ旋律素材が見られるなど、ふたつの作品には音楽的に関連がある。また、交響曲第2番も含めて、声楽の歌詞歌曲少年の魔法の角笛』を用いていることから、これらを「角笛三部作」と括ることがある。目次

1 作曲の経緯

1.1 ハンブルク時代

1.2 交響曲第3番の作曲と標題

1.3 ウィーン進出へ


2 初演と楽譜

2.1 出版


3 楽器編成

4 楽曲構成

4.1 第1楽章

4.2 第2楽章

4.3 第3楽章

4.4 第4楽章

4.5 第5楽章

4.6 第6楽章


5 標題の変遷

5.1 全体の標題

5.2 各楽章の標題

5.3 マーラーの手紙による解題


6 ニーチェの思想との関連

6.1 リヒャルト・シュトラウスとの比較


7 歌詞(第4楽章・第5楽章)

7.1 第4楽章

7.2 第5楽章


8 脚注

9 参考文献

10 外部リンク

作曲の経緯
ハンブルク時代

マーラーは、1891年3月26日にハンブルク市立劇場の指揮者に就任すると、1893年からザルツブルクの東方50kmにあるアッター湖畔のシュタインバッハで夏の休暇を過ごすようになった。シュタインバッハには、妹のユスティーネや友人でヴィオラ奏者のナタリーエ・バウアー=レヒナーをしばしば伴っている。1894年にはこの地に作曲小屋を建て、6月から8月の間、小屋にこもって作曲するようになった。1897年4月にハンブルクを離れるまでの間、シュタインバッハで1896年までに、交響曲第3番のほか、交響曲第1番の改訂、交響曲第2番の完成、歌曲集『少年の魔法の角笛』が手がけられている。

シュタインバッハでのマーラーの生活は規則正しいもので、早朝に起きると午前中は作曲に専念、昼は食事や会話を楽しみ、午後は近くの森や牧場や湖畔を散策、夜は読書と会話に当てられた。夜の読書では、ドストエフスキーショーペンハウアージャン・パウルニーチェなどの思想小説を読み、ときにニュートンやテオドール・フェヒナーなど自然科学の分野の著作にも手を広げた。

一方、1895年2月6日にマーラーの14歳年下の弟オットーがピストル自殺しており、これによってマーラーは衝撃を受けた。その後作曲された交響曲第3番にこの事件の直接的な影響を見ることはできない。しかし、第2番までに見られる自叙伝的性格や人間の生死の葛藤といったテーマから、これらも包含するような自然賛歌的な内容を第3番は持っており、マーラーの目を自然界に向けさせたきっかけのひとつとして、弟の死があったと見ることも可能である。
交響曲第3番の作曲と標題

交響曲第3番は、1895年の夏に第2楽章から第6楽章まで作曲され、翌1896年に第1楽章が書き上げられ完成した。当初構想されていた第7楽章は、すでに1892年に独立した歌曲として作曲され、初演もされていたが、最終的に第3番には採用されず、のちに交響曲第4番の終楽章として使用されることになる。

マーラーは1896年6月の終わりには第7楽章を削除することを決め、8月6日付けで批評家マルシャルクに宛てた手紙で、「僕の作品が完了した」と述べ、手紙の中に標題を書いている。標題はそれまでにいくつか変遷をたどっているが、このときマーラーが手紙に示した標題が最終的なものと考えられ、次のようなものである。

第一部

序奏 「牧神(パン)が目覚める」

第1楽章 「夏が行進してくる(バッカスの行進)」 

第二部

第2楽章 「野原の花々が私に語ること」

第3楽章 「森の動物たちが私に語ること」

第4楽章 「夜が私に語ること」

第5楽章 「天使たちが私に語ること」

第6楽章 「愛が私に語ること」

しかし、これらの標題は、後に誤解を受けるとして、マーラー自身の手により破棄されたため楽譜には書かれていない。

指揮者のブルーノ・ワルターは、1894年から1896年までハンブルク歌劇場でマーラーの助手をつとめていたが、1896年の夏マーラーに招かれてシュタインバッハを訪れた。ワルターの回想によれば、このとき、汽船で到着したワルターが険しく聳(そび)えるレンゲベルクの岩山に眼をとめて感嘆していると、迎えにきたマーラーが「もう眺めるに及ばないよ。あれらは全部曲にしてしまったから。」と冗談ぽく語ったという。休暇の終わりには、ワルターは新しい交響曲をマーラーのピアノ演奏で聴いている。
ウィーン進出へ

このような多忙さもあって、マーラーはウィーンへの進出を図るようになる。1895年から翌1896年の7月、マーラーはバート・イシュルで避暑中のブラームスを訪れ、その知遇を得ようとした。当時のウィーンの楽壇を二分する音楽勢力としてはワーグナー派に属するマーラーであったが、ブラームスからは道徳的立場からの支援をとりつけることに成功した。この交響曲の第1楽章冒頭で、8本のホルン斉奏によって呈示される主題は、ブラームスの交響曲第1番の有名なフィナーレ主題や『大学祝典序曲』との関連が指摘されており、あるいはブラームスへの讃辞などなんらかの意図が含まれていることも考えられるが、真相は不明である。


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