交響曲第2番_(マーラー)
[Wikipedia|▼Menu]

音楽・音声外部リンク
全曲を試聴する
Mahler -- Symphony No.2 'Auferstehung'
- マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による演奏。ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団公式YouTube。
MAHLER Symphony No 2 - ユッカ=ペッカ・サラステ指揮エーテボリ交響楽団による演奏。エーテボリ交響楽団公式Vimeo。
Mahler Symphony No.2 ”Resurrection” - アッシャー・フィッシュ指揮西オーストラリア交響楽団による演奏。西オーストラリア交響楽団公式YouTube。
Gustav Mahler:Symphony No.2 ”Resurrection” - クラウディオ・アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団による演奏。EuroArts公式YouTube「EuroArtsChannel」。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

交響曲第2番ハ短調は、グスタフ・マーラー作曲した交響曲。「復活」(Auferstehung)というタイトルが付されるのが一般的であるが、これは第5楽章で歌われるフリードリヒ・クロプシュトックの歌詞による賛歌「復活」(マーラー加筆)からとられたもので、マーラーがこの題名を正式に用いたことはない。

1888年から1894年にかけて作曲された。オルガンバンダ(舞台外の楽隊)を含む大編成の管弦楽に加え、第4楽章と第5楽章に声楽を導入しており、立体的かつスペクタクル的な効果を発揮する。このため、純粋に演奏上の指示とは別に、別働隊の配置場所や独唱者をいつの時点でステージに招き入れるか、合唱隊をいつ起立させるかなどの演出的な要素についても指揮者の考え方が問われる。

第4楽章では、マーラーが1892年に完成した歌曲集『子供の不思議な角笛』の歌詞を採用している。つづく交響曲第3番交響曲第4番も『子供の不思議な角笛』の歌詞を使っていることから、これらを「角笛」3部作として括ることがある。演奏時間約80分。
作曲の経緯
ブダペスト時代

1888年3月、マーラーはのちの交響曲第1番となる「交響詩」を完成させると、5月にはライプツィヒ市立歌劇場の職を辞して故郷のイグラウに戻った。10月1日にはブダペストのハンガリー王立歌劇場の音楽監督に就任した[1]

マーラーが新たな楽章の作曲に取りかかったのはイグラウにいた6月のことである。曲は8月にほぼ完成、9月にプラハで浄書された。この楽章の自筆総譜の表紙には、「葬礼」と書かれているが、その下には削除された「交響曲ハ短調」の表示が残されており、さらに1.Satz(第1楽章)とされている。これは、この曲がはじめ交響曲の第1楽章として構想され、のちに標題が書き換えられたことを示すものである。マーラーは同じ年に『子供の不思議な角笛』に出会い、これにも作曲を開始している。

この年マーラーは、11月に「交響詩」を初演するが、失敗。マーラーは曲を改訂する必要を感じたと見られる。この間、新たな楽章はマーラーの手元に置かれたままだった。

一方、指揮においては、ワーグナー作品のハンガリー初演やモーツァルト歌劇の上演で評価を高めたが、歌劇場新監督のツィヒ伯と対立したマーラーは、1891年3月14日、ブダペストを去ることになった。10年契約のところを2年余りで途中辞職させられたことで、マーラーは多額の補償金を得たという。
「葬礼」の試演

メディア外部リンク
交響詩「葬礼」
(交響曲第2番第1楽章の初期稿)を視聴
音楽・音声
Totenfeier
- ウラディーミル・ユロフスキ指揮ベルリン放送交響楽団NAXOS of America提供のYouTubeアートトラック。
映像
Mahler: Totenfeier - エリアフ・インバル指揮hr交響楽団、同楽団公式YouTube。

1891年3月26日、マーラーはハンブルク市立劇場の指揮者に就任した。これはブダペスト歌劇場の辞任前に打診していたものであった。マーラーは就任直後の3月29日から5月31日まで、ワーグナー作品を中心に取り上げ、3月31日の『ジークフリート』公演を聴いたハンス・フォン・ビューローは、マーラーの指揮を絶賛した。

10月、マーラーは作曲済みの第1楽章をショット社に送付し、単一楽章の交響詩として出版することを打診した。「葬礼」の標題は、このときに付けられたのではないかと考えられている。11月には、「葬礼」をピアノ演奏してビューローに聴かせる。マーラーの指揮を評価したビューローだったが、「葬礼」については、「これに比べれば、『トリスタンとイゾルデ』もハイドンの交響曲みたいなものだ」、「これが音楽だとしたら、私は音楽が全くわからないことになる」などとして、耳をふさいで露骨に拒絶を示した。ショット社からも出版を拒否され、マーラーは単一楽章としての発表を断念せざるを得なくなった。

この間、マーラーは『子供の不思議な角笛』の作曲をすすめており、1892年4月に完成、翌1893年にはオーケストラ版の総譜が完成する。このうち第7曲「原光」が、のちに交響曲の第4楽章に充当されることになる。
交響曲の完成

1893年1月にマーラーは「交響詩」を改訂(=第1交響曲第2稿)。7月にザルツブルクの近郊、アッター湖畔にあるシュタインバッハにおいて、「第2番」の第2楽章から第4楽章までを完成させた[2]。このとき、『子供の不思議な角笛』の新たな1曲「魚に説教する聖アントニウス」も第3楽章と同じ材料に基づいて作曲されている。マーラーはこの年から夏休みをシュタインバッハで作曲に専念して過ごすようになり、また、バート・イシュルに滞在していたブラームスを訪問して知己を求めている。

同年10月、マーラーは改訂した「交響詩」に『巨人』の標題を付してハンブルクで演奏、翌1894年7月ヴァイマルで再演するが、いずれも成功しなかった。

1894年2月12日、ビューローがカイロで客死し、3月29日ハンブルクのミヒャエリス教会で葬儀が行われた[3]。この葬儀に出席したマーラーは、オルガンと合唱によるクロプシュトックの「復活」を聴き、交響曲の終楽章の歌詞に使用することを思いつく[3]。この時の感動をマーラーは「あたかも稲妻のようにわたくしの身体を貫き、曲の全体の形がわたくしの前に、はっきりと明らかな姿で現れました。創作する者はかくのごとき『稲妻』を待つこと。まさしく『聖なる受胎』を待つことなのです。」(友人のザイドルに充てた手紙から)と書いている[4]

まず、テキストの最初の二連を使い、各連末尾の「ハレルヤ」は削除、三連以降は自作の歌詞を加筆した。4月に「葬礼」を小節数短縮、編成拡大などの改訂を施して第1楽章とし、6月には総譜の下書きが完成する。最終稿ができあがったのは、12月18日ハンブルクにおいてであった。
初演

1895年3月4日、声楽の入らない第1楽章から第3楽章までをベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演。演奏会全体の指揮者はリヒャルト・シュトラウスであるが、この曲については「作曲者指揮による」との断り書きがあり、マーラーが指揮したものと見られる。その夏にはマーラーはシュタインバッハにおいて交響曲第3番の作曲に取りかかった。全曲初演は1895年12月13日、同じくマーラー指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による。マーラー35歳のときである。膨大な管弦楽に独唱者、合唱隊をくわえるため多額の資金を必要としたので、マーラーは私財を投じて借金をし、チケットを友人や音楽学校の生徒に売りつけるなどかなりの無理をしたが、その甲斐あって初演は大成功となった。

第1交響曲が初演された1896年3月16日の演奏会では、第1交響曲の全楽章に先立ち、「第2番」の第1楽章に再び「葬礼」の標題を付けて演奏した。「葬礼」の標題を使用したのは、これが最後と見られる。1895年初演のときのブルーノ・ワルターの感想「・・・私の回想の中で最も素晴らしい物の一つです。私は終楽章の偉大なるラッパで世の終わりを告げた後に、復活の神秘的な鳥の歌を聴いた時の息のつけぬような緊張、そこへ続く合唱の『汝よみがえれ。』に導かれる部分での深い感動は、今でも耳にはっきり残る。・・・作品の大きさ、独創さ、マーラーの個性の強さなどの印象が余りにも深く偉大であったので、この日から、彼は、作曲者として最大の地位をもって迎えられたのです。」
楽譜
版の混乱


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:49 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef