交易
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国外にいる相手との貨幣を介した商業取引については「貿易」をご覧ください。

交易(こうえき、: trade)とは、特定の個人・集団間で価値のある品物をお互いに交換する取引のこと[1]。貨幣を介さず物々交換に重きを置いた語として用いられることが多い[注釈 1][4]

近代的な観点だと、交易は専門化と分業のために存在している。個人や集団が生産の一角集中を行い、その成果といえる特産品を交易において他の製品や必需品と換えるのに利用する、経済活動のよくある形態である[5]。地域間での交易が存在するのは、地域が違うと交易可能なコモディティ(他の場所では希少ないし限られた天然資源を含む)の生産にも比較優位が生じうるためである。例えば、地域の規模の違いが大量生産を促す場合もある。こうした環境だと、地域間で行なう交易が双方の地域にとって利益となりうる。
語源

交易の「交」には、二つ以上のものが「まじわる」「関係を持つ」「かわるがわる」といった意味があり[6]、「易」には「取り換える」という意味がある[7]。したがって、交易とは「二者以上が交わってお互いに(交流関係を維持すべく)物品を交換する」事を指している。

交易を意味する英単語 trade は、中世英語だと「道、行方」を意味しており、これはハンザ同盟の商人によって欧州から英語に導入されたものである。中世低地ドイツ語の Trade も「道、行程」の意味で、さらに遡ると古ザクセン語の trada が「足跡、小径」、ゲルマン祖語の *trad? は「小径、道」という意味である。
歴史「貿易史」も参照
先史時代

交易は、先史時代に人類のコミュニケーションから始まった。交易は先史時代の人々の主な便宜であり、貨幣経済以前の贈与経済 (gift economy) において彼らはお互いに品物を交換していた。ピーター・ワトソンは、遠距離商取引の歴史を約15万年前に遡るとしている[8]。地中海域では、文化間の最も古い接触が3.5-3万年前から始まったとされる[9][10][11][12]

伝統的な自給自足を別にすれば、交易が先史時代の人々の主な便宜となり、人々はお互いに持ち寄った品を物々交換していた。
古代史1860年代にロシア南部の古墳(Bolshaya Bliznitsa tumulus)で発掘された、古代エトルリアのテラコッタ製香油入れ「アリュバロス」。エルミタージュ美術館所蔵。

交易は、有史以来ほぼずっと実施されてきたと考えられている。石器時代黒曜石フリントが交換された証拠があり、オックスフォード考古学辞典によると、黒曜石の交易は紀元前17,000年からニューギニアで行われていた[13][14]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}近東で最初期の黒曜石の使用は、先土器新石器時代B期(P.P.N.B)に遡る[15]三笠宮崇仁親王

ロバート・カー・ボサンケは1901年の発掘調査により石器時代の交易を調査した[16][17]。交易が最初に西南アジアで始まったと主張する有識者もいる[18][19]

黒曜石使用の考古学的証拠は、中石器時代後期から新石器時代にこの素材がどの程度チャート (岩石)よりも優先的に選ばれたか、黒曜石が珍しい地中海域でどの程度交換を必要としていたかに関するデータを提示している[20][21][22]

黒曜石は切削道具や工具を作る材料になっていたと思われるが、もっと楽に入手できる他の材料が使用可能だったので、フリントを豊富に活用する部族の高い地位だけで見つかった[23]。興味深いことに、黒曜石はフリントと比べて現在もの価値を保っている。

初期の交易者達は、地中海域の900km圏内で黒曜石を交易していた[24]

新石器時代ヨーロッパにおける地中海域の交易は、この素材が最も規模が大きかった[20][25]。交易網は紀元前12,000年頃に存在し[26] 、1990年の研究によればアナトリア半島レバントイランエジプトと交易するための主要拠点だった[27][28][29]ミロス島リーパリ島の黒曜石は、古代の地中海域で最も広範に交易される産物資源だった[30]

アフガニスタンの山岳地帯にある鉱山 (Sar-i Sang) は、ラピスラズリの交易で最も規模の大きな拠点だった[31][32]。この素材は紀元前1595年から始まるバビロニアカッシート王朝期に最も多く交易された[33][34]
その後の交易
地中海と近東詳細は「シルクロード」を参照

3000年もの間エブラは著名な交易の中心地で、交易網がアナトリアや北メソポタミアにも及んでいた[30][35][36][37]ヨーロッパとアジアを結ぶシルクロード交易ルートの地図

紀元前3000年より、宝飾品を作るための素材がエジプトと交易取引されていた。長距離の交易路が最初に現れたのは、メソポタミアのシュメール人インダス文明と交易した紀元前3千年紀頃である。フェニキア人は特筆すべき海上交易者で、地中海を横断し、青銅を製造するための資源を求めてブリテン島まで北上した。彼らはこの目的のために、ギリシャ人がエンポリウムと呼んだ交易植民地を設立した[38]。地中海沿岸では、地域交流の度合いと考古学的遺跡(鉄器時代以降)での局所的有病率との間に有意の関係性があることを調査団が発見した。これは、ある地域の交易可能性が人類の居住地の重要な決定要因だったことを示唆している[39]

ギリシャ文明の黎明期から5世紀のローマ帝国陥落まで、経済的に儲かる交易は、インドや中国を含む極東からヨーロッパへと貴重な香辛料をもたらした。ローマの商取引 (Roman commerce) が同帝国を繁栄存続させていた。後年のパクス・ロマーナでは、ローマがエジプトおよび近東を征服したことで地中海唯一の海洋大国になったため、海賊行為に怯えなくとも交易品の出荷を可能にする安全かつ安定した輸送網を構築した[40]

古代ギリシャではヘルメースが交易(商業)および度量衡の神だった[41][42][43]。古代ローマではメルクリウスが商業の神であり、その祭りは第5月の25日に交易者らによって祝われた[44][45]

交易の自由という概念は、古代ギリシャ諸国の統治者たちの意向や経済方針と対立する理念 だった。諸国間の自由な交易は、統治者の財物の安全保障を維持するための厳格な(課税を経由した)内部統制によって抑圧されていたが、とはいえ機能的な共同体生活の構造内では程々の節度が維持できていた[46][47]


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