留学(りゅうがく、るがく)とは、自国以外の国に在留(ホームステイ等)して学術・技芸を学ぶことをいう。3か月以内を短期留学、それ以上を長期留学と言う。広義には自国内の遠隔地に生活拠点を移して学術・技芸を学ぶこと(国内留学)を含める場合もある。
留学している人を「留学生」(りゅうがくせい、るがくしょう)という。
上位概念として「遊学」があり、国内外の留学を意味する言葉があるが上記の通り留学や国内留学という言葉が使われている(ここでの「遊」という意味は「本拠とする場所から離れる」という意味。)。
留学の目的は様々であるが、特に一般的なのは外国語を学ぶための留学(すなわち「語学留学」)である。 近代における留学は、欧米では依然として以上のような人格完成を意味していたのに対して、かつての日本など近代化を目指す国にとっては、国を代表して先進の文明を学んでくるといった気負いが加わり、現在の留学のニュアンスにもその名残りが感じられる。これらの留学生は、自国に戻ってから政治・経済の近代化に大きく貢献した。とりわけインド、ベトナム、カンボジア等の旧植民地諸国では、宗主国への留学生が中心となって行われた[要出典]。 一般に、国が発展途上段階にあり、留学先の国との近代化の程度のギャップが大きい場合ほど、留学によって得た知識が生きる可能性が大きいといえるが、留学先が自国に比して顕著に先進的な国である場合には、留学費用などの点で、官費留学や社費留学などのシステムが整備されていないケースには留学が難しくなる。また、自国が発展途上の段階にある場合には、そもそも出国や留学先の入国に法律上・事実上の制限があったり、外貨持ち出しの制限など経済的な制約が強い場合が多い。しかしそれでも一部の国では、学費が無料であったり、あるいは留学生に援助金を出したりするところもあるため、発展途上国から留学する学生も多い。 そして、グローバル化が進むなかで、先進国から途上国への留学もみられるようになり、今日の留学は相互交通的、多元的な時代に入っている。文化や制度や習慣・常識は国によって大きく違うことから、留学する際には事前調査と計画をしっかり立て、カルチャーショックなどにも備えておく必要があるとされるが、また、逆にそうしたことから自国の文化や制度、価値観や常識を見つめなおすことができるのも留学の利点とされ、近代化の枠組みを超えた、外国語の習得や様々な人脈の形成、自己啓発、自己鍛錬などを動機とした留学が後進国でも増えている。語学留学の場合、アメリカ、イギリスを中心にした英語留学(その他の国にカナダ、フィリピン、アイルランド、ニュージーランド、オーストラリア、フィジーなど)や、フランスでのフランス語習得、ドイツでのドイツ語習得、中国、台湾での中国語習得などを目的としたものが一般的となっている。 国内留学については、都市部の学生が国内の地方に留学し通常の教育のほかに自然体験などを行う山村留学や、官庁や学校などの教職員が現職のまま国内の他の大学や研究機関に派遣される内地留学が行なわれている。 自己負担による留学。官費留学に対応する概念として存在するが、企業の従業員が企業の費用負担で派遣される留学に対比して、自らの出費にて留学する場合の概念としても用いられる。 国が費用を負担する留学。若手官僚等を将来、国の役に立つ人材として育成するために行う。日本では1966年から行政官長期在外研究員制度 内外の財団等による留学。大学在学中に留学できるものや、ロータリークラブなど大学卒業後に留学できる制度もある。留学終了後の進路は自由。 企業が費用を負担して従業員を派遣する留学。官費留学と同様、転職などの問題がある。 各国大使館を通して応募する留学。留学先大学、専攻など、選考後も折衝が必要。 島国である日本では、留学の歴史は古く、古来から新知識、新技術は海を越えて大陸への留学によって持ち帰られたものだった。 古代の日本において、稲作、金属器、文字、仏教などは主に中国大陸・朝鮮半島からの渡来人によって伝えられたものであったが、6世紀末頃からは、大和王権による中国への留学生の積極的な派遣が始まり、新知識、新技術の吸収が本格的に行なわれるようになった。記録に残されている最初の留学生は、588年に百済へ派遣された善信尼ら5人の若い尼で、受戒の法を学び590年に帰国している。 この頃の日本には、造船や操船の技術が未発達で、留学はまさに命を賭しての一大事業であった。奈良時代以降の遣唐使、遣隋使に付き従った学生、学問僧はまさにそれで、目的地にたどり着けない者、異国で学業を身につけたものの、終生帰国できなかった者も少なくない。遣隋使に付き従った高向玄理、南淵請安らは、20?30年にわたって中国で生活し、帰国後は律令国家の建設において大きな役割を果たした。また、遣唐使が派遣されるまでは新羅に渡る僧も少なくなかった。遣唐使とともに派遣された著名な学生、僧としては、道昭、吉備真備、阿倍仲麻呂らがいる。なお、「留学生(るがくしょう)」という言葉が生まれたのもこの頃である。 平安時代に入ると、請益 12世紀に入ると、大陸・南宋との交流が盛んになり、大陸仏教への関心も高まり、重源、栄西、覚阿ら各派の僧が相次いで南宋に留学した。とりわけ栄西による帰国後の新宗教活動は国内の僧に大きな影響を与え、その後、道元や覚心らの積極的な留学を呼ぶこととなった。 元寇後は大陸との関係が途絶するが、14世紀初頭から、私的留学を行う僧らの渡航が活発化し、明代にかけて留学僧の往来の最盛期をむかえる。雪村友梅ら長期にわたって禅を学ぶ者が多かった。しかし、室町時代に入ると倭寇対策のため日明貿易以外では中国への渡航が禁止される。その後、戦国・安土桃山時代の天正遣欧使節、朱印船貿易、江戸時代の鎖国体制においても、事情は変わらなかったが、異国への窓口であった長崎(出島)への国内留学によって、細々とではあったが海外からの文化が国内に入っていた。江戸時代後期には、輸入された学問や科学が蘭学として徐々に広まっていった。 近代日本における外国への留学は幕末に始まり、1862年に江戸幕府が初めてオランダへ留学生を送り、次いでヨーロッパの諸国へも派遣している。また、長州や薩摩などの諸藩も相競いあうようにして、英国(イギリスの日本人学生参照)やフランス、アメリカなどの各国へ若者たちを派遣した。1866年には留学のための外国渡航が幕府によって許可されるに至り、これら幕末期の留学生は約150人に達した。 明治時代に入ると、明治政府は近代化、欧米化を目指して富国強兵、殖産興業を掲げ、このなかで外国留学が重要な国策の一つとなった。明治4年9月までの留学生は、英国107人、米国98人を筆頭に、281人を数えた[1]。岩倉使節団の派遣では留学生が随行し、司法制度や行政制度、教育、文化、土木建築技術などが輸入され、海外から招聘した教授や技術者(お雇い外国人)によって紹介、普及されていった。 それだけではなく、明治期以降、海外の優れた制度を輸入することや、海外の先進的な事例の調査、かつまた国際的な人脈形成、さらには国際的に通用する人材育成を目的として、官費留学が制度化された(貢進生参照)。無論、ある程度の財力を持つ人々やパトロンを得た者のなかには、私費留学によって海外での研鑽を選ぶ場合もみられた。明治年間のこうした官私費留学生は全体で約2万4,700人に達するとされ、また1875-1940年の間の文部省による官費留学生、在外研究員は合計で約3,200人を数える。 この間の著名な留学経験者として、伊藤博文、井上馨、桂太郎、津田梅子、大山捨松、森?外、夏目漱石、中江兆民、小村壽太郎、東郷平八郎、高橋是清、三浦守治、高橋順太郎、湯川秀樹、朝永振一郎らがいる。 第二次世界大戦後は、フルブライト奨学金制度による学術留学及び研修留学や、ロータリークラブによる海外生活体験を目的とした留学、大企業による社費留学が制度化され、多くの人が海外へ行けるようになった。その目的は、海外の人々との交流であったり、学術研究レベルや行政、経営能力を引き上げることにあった。また、当然のことであるが、国際人として通用する人材を育成するために国として制度化した部分もある。サンケイスカラシップと仏語のコンクール・ド・フランセ 1985年プラザ合意以後の急激な円高傾向を受け、留学はより身近なものとなり、その目的や動機は多様化の一途をたどっている。これまで、日本の高等教育では例外的に水準の低かった経営学や金融工学を学ぶため、ハーバード大学等有名大学のビジネススクールでMBAや研究機関で博士号の取得を目的とした学術的なものから、能力の向上のみを目的とした語学留学、海外での生活体験を目的としたワーキングホリデー、そのほか看護や児童英語教師の資格の取得を目的とするものなどがある。
概説
近代化と留学
グローバル化と留学
国内留学
留学の制度
交換留学
高校生の生活体験留学
アユサ ⇒[2]
AFS
YFU
自治体 - 姉妹都市協定を結んでいる都市間で行われる生活体験留学
ロータリークラブ - 各国のロータリークラブ間の協定に基づき行われる生活体験留学
大学間協定に基づく
交換留学
機関間協定に基づく
交換留学
私費留学
官費留学
公費留学
社内留学
外国政府等奨学金留学
日本からの留学
古代遣唐使船
中世から近世
近代岩倉使節団に随行した女子留学生:左から永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松。
1862年オランダ留学生 - 榎本武揚、赤松大三郎、沢太郎左衛門、西周、津田真道、林研海、伊東玄伯など
1863年長州藩イギリス留学生 - 井上聞多、野村弥吉、伊藤俊輔[要曖昧さ回避]、山尾庸三、遠藤謹助など
1865年薩摩藩イギリス留学生(薩摩藩第一次英国留学生) - 森有礼、鮫島尚信、吉田清成など
1865年ロシア留学生 - 山内作左衛門、市川文吉、緒方城次郎、大築彦五郎
1866年薩摩藩米国留学生(薩摩藩第二次米国留学生) - 仁礼景範、湯地定基、吉原重俊など
1866年イギリス留学生 - 外山正一、箕作奎吾、箕作大六、林薫など
1867年フランス留学生 - 徳川昭武など
1868年フランス留学生 - 小出涌之助
1871年岩倉使節団随行留学生 - 岩倉使節団#留学生参照
1872年京都府派遣フランス留学生 - 佐倉常吉
第二次世界大戦後
現在