亜細亜大学硬式野球部生田勉(元監督)
加盟団体東都大学野球連盟
本拠地東京都西多摩郡日の出町平井1449?1
創部1958年
監督正村公弘
公式サイト ⇒亜細亜大学硬式野球部
リーグ戦成績
リーグ成績1部リーグ優勝 27回
全日本大学野球選手権大会
出場回数14回
最高成績優勝5回
明治神宮野球大会
出場回数11回
最高成績優勝5回
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亜細亜大学硬式野球部(あじあだいがくこうしきやきゅうぶ、英: Asia University Baseball Club)は、東都大学野球連盟に所属する大学野球チーム。亜細亜大学の学生によって構成されている。ユニフォームは縦縞に「ASIA」、帽子は「A」と「U」の組み文字。 1959年9月、東都大学リーグの準加盟リーグ(後の4部リーグ戦)に加盟し、同年秋の準加盟リーグ戦は日本体育大に次ぐ2位となる。翌1960年春、準加盟1部リーグ戦で優勝し、入替戦で東京教育大を下し東都大学リーグ3部昇格。同年秋の3部リーグ戦は成蹊大に次ぐ2位。翌1961年、生原昭宏が監督就任。同年春の3部リーグ戦は4位だったが秋に優勝し、入替戦で成蹊大を下し翌1962年春に2部昇格。 1964年春、入替戦で国学院大を下し同年秋に1部昇格。以降、1994年秋まで降格することなく1部に定着した。 1966年秋、矢野祐弘監督が率いて2年目、最上級生の主将岩本紘一や東山親雄捕手、2年下のエース森永悦弘と西尾敏征両投手(共に通算17勝9敗、69年卒)、東都の元本塁打記録20本保持者大橋穣や内田俊雄(のち亜大監督)らを擁して、東都大学リーグ初優勝を飾る。翌1967年秋に2回目のリーグ優勝を果たす。 1971年春、山本和行投手(通算33勝〈亜大歴代3位〉26敗、72年卒)を擁して3回目のリーグ優勝を果たした。続く全日本大学選手権(第20回大会)に初出場し、決勝で横山晴久と3年池田信夫両投手擁する法政大を7-4で下し選手権初制覇。同年秋はリーグ戦4位ながら第2回明治神宮野球大会に招待され、秋季リーグ優勝の鈴木博識投手らを擁する日本大との春秋の東都優勝チーム同士の決勝戦となったが1-3で敗れ準優勝に終わった。1970年代は駒沢大が無双ぶりを発揮し、中央大が強くさらに東洋大が躍進しはじめるなか、主戦小林達也(通算20勝15敗、76年卒)や黒紙義弘(通算12勝11敗、77年卒)と竹桝和也(77年卒)、1年下の矢野隆司(通算10勝17敗、78年卒)と高橋周司(通算11勝6敗、78年卒)らの投手陣、主軸に古屋英夫らを擁するも、亜細亜大はなかなかリーグ上位を窺うことができなかった。 1978年、矢野祐弘が総監督になり、内田俊雄が監督就任。小松義昌(12勝16敗、80年卒)や宮本賢治(通算35勝〈下記東浜巨と同数の亜大歴代1位〉18敗、82年卒)らの投手陣が活躍し、翌翌1980年秋に3年宮本投手や4年大石大二郎らを擁してリーグ優勝。翌1981年春も宮本投手の力投でリーグ戦連覇を果たした。80年秋の第11回明治神宮野球大会では準決勝で関東学院大を4-1、決勝で石田富士男と白武佳久両3年生投手擁する日本体育大に2-4で敗れ準優勝。81年春の第30回全日本大学野球選手権大会では準決勝で近畿大に2-10で大敗した。この1980年代は駒大が依然強いなか、東洋大が強くさらに80年代半ばからは青山学院大が躍進しはじめた。亜大もこの時期、駒大・東洋大と共に3強の一角に数え上げられるが、1984年春に3年三原昇(通算15勝11敗、86年卒)や2年阿波野秀幸(通算32勝18敗、87年卒)両投手、3年生の4番古川慎一らを擁して優勝。続く第33回全日本大学野球選手権大会準決勝で近畿大を2-0、決勝で3年生西川佳明と秦真司のバッテリー擁する法政大に3-6(延長11回)で敗れ準優勝。それ以降も、1番鈴木慶裕、3番パンチ佐藤、4番古川の強力打線に、下級生北口正光や中本浩、生田勉捕手(のち亜大監督。3人共に89年卒)らが加わり、エース阿波野のほか与田剛(通算1勝、88年卒)や弓長起浩(通算3勝3敗、90年卒)らの投手陣を擁しつつもリーグ戦でなかなか勝ちきれなかった。 1990年、エース小池秀郎(通算28勝14敗)、高津臣吾(通算11勝15敗)、川尻哲郎(通算4勝1敗)ら4年生の3枚看板投手を擁しリーグ戦春秋連覇。続く第39回全日本大学野球選手権大会準々決勝で4年水尾嘉孝投手の福井工業大を3-2、準決勝で創価大を3-0、決勝で小坂勝仁投手と矢野燿大らを擁する東北福祉大を小池の力投により2-1で下し優勝。同年秋の第21回明治神宮野球大会では準決勝で、エース杉浦正則や3年生片岡篤史擁する同志社大に小池温存高津先発により3-4で惜敗した。1990年代以降、入来祐作投手(通算23勝21敗、95年卒)、沖原佳典、部坂俊之投手(通算14勝10敗、97年卒)、中野栄一捕手らが活躍した。入来らが最上級生だった1994年秋の入替戦で西口文也投手擁する立正大に敗れ、64年秋に1部昇格以来初の2部への降格を経験したが、翌1995年春に3年生部坂らが活躍し入替戦で国士舘大を下し同年秋に1部に復帰。90年代半ば以降、飯塚智広・井端弘和・1学年下の赤星憲広ら小柄で俊足巧打の内外野陣や2学年下の大型の松本奉文らの打撃陣、佐藤宏志(通算23勝12敗、00年卒)と中須賀諭(通算10勝9敗、00年卒)両投手、松井光介(通算10勝6敗、01年卒)と吉川昌宏(通算9勝2敗、01年卒)両投手、松井吉川の2学年下の木佐貫洋投手(通算12勝8敗、03年卒)や小山良男捕手らが在籍した。この時代以降、駒大や東洋大などを尻目に、青学大とリーグの覇のみならず全国大会優勝の覇を競った。 1996年、4年生エース部坂投手らを擁して第27回明治神宮野球大会初戦2回戦で新興東亜大に0-1で敗退。翌1997年、4年生エース小池俊児や2年佐藤宏志らの投手陣を擁して第46回全日本大学選手権準決勝で関東学院大を破り、決勝で清水章夫投手や3年二岡智宏擁する近大に敗れ準優勝。翌1998年、3年佐藤投手らを擁して第47回全日本大学選手権準々決勝で龍谷大に3-5で敗退。同年秋、第29回明治神宮大会初戦2回戦で東亜大を6-4、準決勝で二岡らの近大を7-1、決勝で東北福祉を2-1で下し優勝。翌翌2000年、4年の松井と吉川、2年木佐貫洋らの投手陣を擁して第49回全日本大学選手権準々決勝で青森大を5-4、準決勝で4年山村路直と2年新垣渚両投手擁する九州共立大を2-0(延長10回)、決勝で東北福祉を5-4で下し優勝。
創部
1958年(昭和33年)
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