亜烈進卿(あれつしんけい/あれつしんきょう[1])は、1408年(応永15年)に若狭国小浜に到着した「南蕃船」を派遣した人物。この船は、文献記録で確認できる上では初めて日本に生きた象をもたらした。
と考えられている。また、象はその後日本から朝鮮へと渡っており、朝鮮においても記録上最初の生きた象となっている。「亜烈進卿」の名は、「若狭国税所今富名領主代々次第」において小浜に「南蕃船」が到着したという記録の中に登場する[2]。当時の日本人は「南蛮(南蕃)」を漠然と中国・朝鮮以外の国と認識していた[3]。応永十五年六月二十二日南蕃船着岸、帝王の御名亜烈進卿、蕃使使臣問丸本阿、彼帝より日本の国王への進物等、生象一疋黒、山馬一隻、孔雀二対、鸚鵡二対、其外色々、彼船同十一月十八日大風に中湊浜へ打上られて破損の間、同十六年に船新造、同十月一日出浜ありて渡唐了 ? 若狭国税所今富名領主代々次第[2][4]
応永15年6月22日(ユリウス暦1408年7月15日)に小浜に南蕃船が着岸した。この船を派遣したのは「亜烈進卿」という名の「帝王」である。この船に乗っていた使節は、問丸の本阿弥を宿所とした。「亜烈進卿」から「日本国王」への進物として、生きた黒い象や、孔雀などを含む動物などをもたらした[5]。
江戸時代前期に成立[6]した『若狭郡県志』には[2]、この使節は象などを連れて京に上り、将軍足利義持に献上したという。7月に使節が入京したことについては『東寺王代記
』『武家年代記』『和漢合符』に記録がある[7]。『若狭郡県志』によれば、使命を終えた使節は11月になって小浜から出港した。しかし、上述「若狭国税所今富名領主代々次第」にもあるように、11月18日にこの船は中湊浜に嵐に遭って打ち上げられた。彼らは翌応永16年に船を新造して「渡唐」した。 「若狭国税所今富名領主代々次第」には、応永19年(1412年)にも「南蕃船」が到着した旨が記されている[2][5]。同十九年六月二十一日南蕃船二艘着岸これ有り、宿は問丸本阿弥、同八月二十九日当津出了、御所進物注文これ有り ? 若狭国税所今富名領主代々次第 この南蕃船の送主は不明であるが、亜烈進卿である可能性がある[2]。 「亜烈進卿」はスマトラ島(現在のインドネシア)にあったパレンバン(当時は「旧港」と呼ばれた)の華僑の頭目で、明王朝から旧港宣慰使
応永19年(1412年)の南蕃船
「亜烈進卿」について
施進卿パレンバンの位置
小浜に「南蕃船」が到着する前年の1407年、パレンバンでは華僑の有力者間の対立に南海遠征中の鄭和が介入し、一方の陳祖義(中国語版)を破って処刑する紛争が発生している (Battle of Palembang (1407)) 。施進卿はもう一方の有力者である梁道明(中国語版)の後継者で、旧港宣慰使に任命されたのもこの紛争の処理のためである。
『福井県史』(担当執筆者は小葉田淳)は、「亜烈」は『元史』にみえる「阿里」(ウイグル語で「大」を意味する語)と同様、アラビア語のAliに相当する語と説明している[2]。和田久徳は、「亜烈」はマジャパヒト王国(ジャワ)で「栄誉」を意味するアーリャ (arya) を漢字に音訳した[5] ジャワ系の称号であるとしている[注釈 2]。